Essay 4  絆とは
写真は私の飼い犬である。名前をチロという。64年ぶりに元号が変わった年に生まれ、すぐ家にやってきた。もう14歳、人間に換算すれば80歳近くになる。彼との散歩は私の日課で、雨の日も晴れの日も1時間近く歩いている。この時間が私にとってはたまらなく大切で、そして贅沢なひとときだ。相棒と歩きながら、瞳に映るもの全てからヒントを得て、未知の言葉を探ってゆく。回数にすればおそらく5千回近くになるだろうが、一体いくつのフレイズが出てきただろう。一定のリズムに保たれた両足の心地よい刺激が、私の右脳を沸点へと高めてゆく。私の作詞生活は、この愛犬なしでは成り立たない。
14年も一緒にいると、動物も家族のように思えてくる。
絆とは、おそらくこういう事をいうのだろう。翻って、人と人との出会いも常に偶然にして奇蹟だという。地球46億年の歴史で、たまたま同じ時代、同じ地域、同じ国に生まれるというのはとてつもない確率だ。人間が生まれるということは、2500億匹の精子と400個の卵子として、特定の精子と卵子がめぐり逢う確率は100兆分の1。自分に両親がいて、その両親にもまた両親がいたことを考えれば、恒河沙や無量大数でも測れない、運命の領域としか言えないだろう。

平安時代、「絆」という字は「し」という送り仮名をつけて“ほだし”と呼んだ。「絆し」とは動物をコントロールする紐、牛馬を縛る紐の事を指す。男子を牛馬に例えるなら、それは女房と子供という重たい荷物を背負うもの。鼻に巻きつけられた紐は重たければ重たいほど引っ張られ、とても痛い。しかしその引っ張られる力が強ければ強いほど、土にめりこむ足跡は深く、それは轍となる。その轍の長さこそが、家族という“絆”の深さであると言える。

現代では女性も男性と同等に働くから、立場が逆転する場合があるかもしれない。これは家族に限ったことではなく、自分自身が胸に抱えている悩みや友人関係も、重たい荷物にあてはまるだろう。人は苦しんだ分だけ、誰かに優しくなれる。だからこそ、人間は様々な人や物に触れて、喜びも傷も経験しなければならない。

今年も、残り3ヶ月を切った。一年を振り返るにはまだ早いが、本当に人との出逢いに恵まれた年だった。会った男性も女性もめいめいに自分の夢を持っていて、その実現の為に日々東京で頑張っている好人物ばかりだ。皆初めて知り合った人なのに、とてもそうは思えないほど早くから親しくなれた。たまたま趣味が合ったとか、そういうレベルではない。それはあたかも、前々世あたりでも家族や友人関係にあったかのような感覚だ。

出逢いは偶然だが、それ以後の絆を育ててゆくのは必然である。
これまでも、そしてこれからも、出逢えた人、物全てに感謝して、この“絆”というものを大切にしていかねばならないと思う。

・・・絆とは、遠い過去の、再会の約束だと信じたい。
2003.10.8 Shuichi Hatta