Essay 36 自慢は芸の行き止まり
吉本興業所属の某大物芸人が、マネージャーに暴行した容疑で芸能活動の自粛を表明した。かつては漫才ブームの一翼を担い、近年は司会者として縦横無尽の活躍を見せていただけに、そのニュースは各方面に衝撃を与えた。記者会見で悔恨の涙を流した彼は、真剣に引退をも考えたという。彼の鋭い話芸を暫く見られなくなるのは非常に寂しいが、芸能人といえども一社会人である。今回の社会的制裁は致し方ない。

少し前になるが、テレビ朝日の『グレートマザー物語』で、ビートたけし(北野武)氏の母・北野さきさんが紹介されていた。たけし氏の次兄・北野大氏によれば、さきさんは「自慢高慢馬鹿がする」という言葉が口癖だったそうだ。ちょっと頭が切れるからといって調子にのるな。人間は驕れば必ずしっぺ返しを食らうー数々の試練を乗り越えた彼の芸術が四半世紀も大衆の心を捉えて離さないのは、その心根に母親の愛によって植え付けられた謙虚さや思いやりが、しっかりと生き続けているからであろう。

頭の切れる人間は、ともすれば周囲の人間を見下しがちになる。そして、自らの栄達のために彼らを利用しようとする。そういう輩は順境にある時はいいが、ひとたび逆境に陥ると瞬く間に奈落の底へと落ちてゆく。時代の歯車によって引き上げられながら、身の丈を弁えず天狗になり、結局それにまた弾き飛ばされ消えていった人間は過去何十、何百人といた。どんな世界でも、長くトップに立ちなお且つ引退後もその存在を惜しまれる人物というのは総じて腰が低い。自分が高い地位を築くことができたのは、己の天才ではなく周囲の人の温かい協力があったことを理解しているからである。歴史に目を遣ると、かつて存在した強権国家の指導者は皆、己とその親族のみを信用し、他の人間は全て粛清した。旧ソ連の独裁者・スターリンは死の床で、自らが殺したかつての同志たちに対してこう呟いたという。
「みんな偉大だった。みんな天才だった。だが、茶を飲む相手はいなかった」
その今際の苦しみは、筆舌に尽くしがたいものだったと伝えられている。己の積んだ業、己の犯した罪の重さが、彼に不幸な最期と後世の悪名高き評価をもたらしたのである。彼は今、黄泉でどんな罰を受けているだろうか。
最近は、教養としての仏教がサラリーマン層を中心にブームだという。戦後に乱立した、排他的な新興のカルト宗教ではなく、古来より日本に土着した智慧としての仏教に救いを求める人が増えたそうだ。中沢新一・中央大学教授によれば、日本人には縄文時代にまで遡れるような“対称的な関係”に基づく思想が脈々と流れているという。それは「人間と自然は同等であって、自然から届けられる贈り物を幸と捉え、人間はそれに対し謙虚に返礼をしなければ自然と良好な関係を保てないといったような考え方」だそうだ。自分の身体も、自分の着ている服も、自分の口から出る言葉も、全てが天からの借り物だと思えば、思いあがることはない。人間は、この世で優しさを遺した分だけ、あの世へ胸を張って旅立てるのではなかろうか。
自慢は芸の行き止まりである。冥土の道に王はなし。
普通が一番、謙虚が一番。
あまり目立たず、でも必死に生きよう。
Shuichi Hatta 2004.11.27