Essay 35 自己を本位とせず
ネットで知り合った男女7人が、埼玉で練炭を使って車中で自殺した事件が話題となっている。首謀者は34歳の主婦兼ミュージシャンの女性。多感な時期に父親から性的暴行を受け、また自身の結婚も破綻し、遂に現世からの離脱を決意したという。自殺決行の直前、知人に「あなたは何で生きてるの?楽しいことなんてないのに」と吐き捨てた彼女は、2人の幼子に遺書でこう語りかけていた。
「お母さんは先に死ぬけどごめんなさい」ー
なんと未熟で、自己本位な生き方だろうか。彼女は薄れゆく意識の中で、最愛の我が子の顔が頭に浮かばなかったのだろうか?子供たちの将来に、思いを馳せることはなかったのだろうか?

夕刻のニュースを見ていたら、「娘をスターに!両親が猛特訓」というタイトルで、自宅で娘にダンスの稽古をつける元ヤン風の両親が紹介されていた。茶色に染めた髪を振り乱し唄い踊る9歳の長女に、父母は叱咤の連続。「一緒に遊んで欲しい」と甘えてきた5歳の次女には「邪魔するな、こっちに来るなお前は」と怒声を浴びせていた。この両親は、長女をスターにさせてどうするつもりなのか?それが本当に子供の人生の為になると考えているのか?十分に愛されることのない次女の将来は?これもまた、子供を自己実現の道具に使う、極めて愚かでセルフィッシュな人間の考え方である。最近、このような「人の親になってはいけない人間」が急増しているようだ。

心理学では、世の中の人間を単純に、2通りに分ける方法があるという。それは、“want to love”(愛したい人)と、“want to be loved”(愛されたい人)だそうだ。自己本位の人間は、いつも“愛されていたい”という受身の姿勢しかとれない。だからいつまで経っても打ち解ける友人もできず、寂しさを埋める為に“恋愛ごっこ”、“夫婦ごっこ”をしてみる。結果子供が生まれても、子供に真実の愛を注ぐことができない。戦後アメリカから輸入された、物質的充足を至上とするディレッタンチスム(享楽主義)は、“want to be loved”の人間を大量に生産した。援助交際の増大とその低年齢化、都による条例制定の動きはその証左であろう。自分が一番大事で、異なるものとはよそよそしい人間関係しか構築できなくなった“無関心社会”。全国に100万人と言われる“ひきこもり”、13万人と言われる“不登校者”は、一体誰が救うのか。強い人間でなければ、人を愛することはできない。“want to love”にはなれない。強い人間をどのような教育体制で育ててゆくか。改めて、国の根幹が問われている。

戦前に蔵相を7度、首相を1度経験し、二・二六事件で暗殺された高橋是清が、こんなことを言っている。
「職務について世に立つ以上は/その職務を本位とし 満足し/それに恥じないようにつとめることが/人間が生きるということの本領である/そうすれば 地位が上がったとて 大喜びすることもなく/地位が下がったとて落胆することもない/すべて己を本位とすればこそ 不平も起り 失望も起きるのだ」
“職務”とは単に仕事のことを指すのではなく、この世で人間として生を燃やすことそのものを指しているとも読める。自己の物質的充足のためではなく、社会のために何ができるか。他人のために何ができるか。それを考えて行動すれば、必ずや“内なる充足感”をいつも心に携えて明るく生きることができよう。死して残るのは財産や名誉ではなく、美しい生き様の足跡である。心底、自分以外の誰かを愛してみよう。豁然と、人生の答えが目前に露頭するはずだ。
自己を本位とせずーこんな時代だからこそ、自分の胸にあえて何度でも問いかけたい。
Shuichi Hatta 2004.10.19