Essay 3  思いやりの時代
「キレる」という言葉が流行してから、もうどれくらい経っただろう?少年少女による凶悪事件が頻発し、大人も“ジコチュー”に代表されるような、他人へのアパシー(無関心)が問題となる事例が後を絶たない。毎日電車に乗っていても、優先席を老人に譲らない若者や、靴を踏んだ踏まないで口論するサラリーマンに遭遇する。まさにネオテニー(幼形成熟)国家・日本の縮図がそこにある。戦後の悪しき平等主義、日教組教育の敗北と一言で片付けるのは容易いが、それにしても、なんとも悲しい世の中だ。

20世紀が終わろうとしていた頃、ある学者が討論番組で「来世紀は互酬性がキーワードになるだろう」と発言していた。“互酬性”とは、金銭を媒介とせずに個人が周囲の人間に赤誠を尽くして対応し、互いに信頼し合うことで“心”の利益を分かち合うことだ。こんな当たり前のことが大真面目に語られるようになってしまったのかと、そのテレビを見ていて愕然とした記憶がある。
私は千葉に住んでいるが、生まれたのは兵庫だ。8年前、故郷は阪神大震災で大きな被害に見舞われた。幸いにも親族に死者は出なかったが、当時の内閣の無能ぶりと危機管理体制の脆弱さに心底震えを覚えた。5千人以上の方が亡くなられたが、後年、生命をとり留めた被災者の方へのアンケートが実施された。その中で「被災後、何を貰ったのが一番嬉しかったですか?」の問いに、一番多かったのが「花」という答えだった。人間はやはり“心”で生きている生き物だと感動すると共に、言葉を扱う人間として、励まされる思いだった。
今年はSMAPの「世界にひとつだけの花」が大ヒットしたが、やはり人々は心で、物質的ではなく精神的なつながりを欲しているのであろう。

仏教用語で“顔施”(がんせ)という言葉がある。今、目の前の人に何もしてやれないと思っても、自分の顔に微笑みだけは絶やしてはいけない。そして、相手の心を和やかにしてあげることを忘れてはならない、という教えだ。微笑みは、幸福を呼ぶ最高のおまじない。
死ぬまで、絶やさずにいたいものだ。
「思いやり」。この使い古された言葉が、21世紀に生きる我々の前に、何かを語りかけるように横たわっている。
Shuichi Hatta
2003.10.6