Essay 29  声の効用
ある日、自宅に一本の電話がかかってきた。誰かと思い受話器を取ると、若い男性の声。
「突然すいません。私、○○貿易の××と申します。いま、効率的な資産運用のご提案でお電話させてもらっています。ガソリンか鶏卵が・・・」
どうやら、先物取引の営業のようだ。妙にハイテンションで、いくぶんか緊張している様子がこちらに伝わってくる。明るく投資の話題を振ってくるが、僕には全く儲かりそうには聞こえてこない。遠まわしに断りの文句を告げ、最後に「大変だろうけど、頑張ってね」と労いの言葉をかけた。すると営業マンは力のない声で「はい・・・。」と言い残して消えた。

彼にとっては、最後の返事こそが本来の自分の言葉なのだろう。自分も仕事で営業をやった事があるから、その大変さは痛いほどわかる。就いている仕事が社会貢献と対極に位置しているなら、その辛さ、苦しさはなおさらだ。

無数の電子メールが飛び交う今も、人間社会の根本は直接人間が発する“生身の言葉”だ。
人間とは、本来優しい声を求めずにはいられない生き物である。優しい言葉を発すると、それは目に見えない温もりを帯び、投げかけられた相手の心にそっと安らぎの灯を点す。温かい言葉を発している人間の顔は、自然と穏やかな微笑で一杯になる。逆に人を罵倒したり、非難するような言葉は、相手を悲しませるのみならず吐いた本人の心をも汚す。瞞着(まんちゃく=欺く事、騙す事)を業とする人間の声は悪魔の声である。

仏教用語に『六根清浄』(ろっこんしょうじょう)という言葉がある。六根とは人間の体を構成する眼、耳、鼻、舌、心、頭脳の6つを指し、お経を唱える事でこれらの器官に付着する穢土の汚れ、すなわち煩悩を払い落とす事ができるそうだ。『舌根の功徳』とは、優れた味覚を持ち、更にその声は神妙となり、聴く者を喜ばせることができるとある。常に他人を思いやる気持ち、倫理に悖らない行動。これを続ければ、必ずや人から信用される声をつくり上げることができるだろう。

テレビに映る政治家や宗教家の声を聴いて、気味が悪くなるのは何故なのか?それは彼らが偽物だからだ。真の聖者は、決して威張ったり、目立とうとはしない。栄達や勲章を欲するのは無意味だと知っているからである。誰もが容易に悟りを開ける時代になったのか、それとも弱者の心につけこむ胡乱者(うろんもの=怪しく疑わしい人間)が増えたのか。人間は、その存在自体が尊きものである。

それを踏み潰すような政治や宗教は誤りだ。
 夕方のテレビを見ていたら、『サザエさんテレビ放映35周年』のニュースが流れていた。言うまでもなく、日曜の夕方を飾ってきた日本を代表するアニメだ。アテレコを担当する声優さん方が皆出演していたが、「声が皆さん変わりませんね」というインタビァーの問いに、マスオさん役の増岡弘さんが話した言葉が印象的だった。
「声というのは心が出すもの。心さえ変わらなければ、いつまでも変わらないでできるんですよ」
視聴者に夢を与えたい。より、いい作品をつくりたいー誠実で正しいその心掛けこそが、大衆に愛される声を維持させたのである。我々も、日々の生活や仕事の中で、ともすれば忘れがちな“誠実さ”を心の芯にしかと留めておきたい。社会に少しでも貢献したいというささやかな奉仕の精神が、自分の声をきっと優しくしてくれるだろう。
















さあ、それでは今日も優しい声の持ち主に、会いにいくとしますか。
               
Shuichi Hatta 2004.5.29