Essay 25  左利きの美学
第130回芥川賞が発表された『文藝春秋』を、増刷で漸く手にとることができた。もっと早く読みたかったのだが、足を運んだ書店はどこも品切。こんな事は初めてだ。19歳と20歳の女性作家が受賞という、前代未聞の出来事に世間も反応したのだろう。芥川賞がこれほど世間の注目を浴びたのは、20数年前の村上龍氏の受賞以来か。とにもかくにも、これを契機に日本文学が再び盛り上がれば喜ばしいことだ。

受賞者インタビューの記事を読み進めていたら、『蹴りたい背中』の著者、綿矢りさ氏が左利きだということを知った。そういえば同じ芥川賞作家の石原慎太郎・現東京都知事も、昨年とんねるずのバラエティー番組に出演した際に左腕で色紙に一筆したためていた。左利きの人間は、一般的に感性が鋭いと言われる。かつてピンクレディーの大ヒット曲『サウスポー』という歌にもなった通り、野球などスポーツの世界で活躍する人々の中にも左利きは多い。日本人の1割と言われる左利きの人々は、圧倒的多数を占める右利きの人々が持ち合わせない“何か”を与えられているのだろうか?

かく言う僕も、実は左利きである。厳格な家は幼い頃に右利きへと矯正させられるケースが多かったとよく聞くが、僕は特に利き腕を直すように言われた記憶はない。綿矢氏や石原氏の才には遥か遠く及ばないが、芸術に携わる身としては、右利きに直さないでよかったのかなとも思う。利き腕は、脳の動きと関係しているらしい。一般に左利きは右脳を、右利きは左脳を使っているとされる。右脳はひらめきを、左脳は論理的に思考する能力を司っているようだ。そう考えれば、芸術家に左利きが多いのは頷ける。一瞬のひらめきを具現化させることに情熱を傾け、その為に神経を、そして人生をすり減らす。それは不器用な生き方なのかもしれない。周囲と要らぬ摩擦を招き孤立することもあるだろう。しかしあえて言わせてもらうなら、感性で人生を戦っている人間は、「自分の芸術を他人の為に使おう」という思いが心のどこかにあると思う。“普通に生きることはできない”と悟った人間なりに、ならば今世で自分が何を成すべきかを、真剣に考えているのである。左利きの人間が人口の1割というのは、天の絶妙な配剤かもしれない。もし人口の半分も左利きがいたら、日本は現在よりももっと困難な事態に直面していただろう。
資源のない国で、芸術によって社会に貢献しようと期する人間は1〜2割程度でいいのではないか。あとの大部分の人々は、持ち前の論理的思考能力でこの国のルールに則って生活すればいい。社会が安定する秘訣はそこにあると思う。

左利きの人物ではないが、島崎藤村の言葉を思い出した。
「生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなわち生涯なり」
自分の言葉を持つ事こそ、芸術家の人生の命題かもしれぬ。左利きの人も、右利きの人も、人生の早い時期に自分の道を見つけて欲しい。そして道を決めたら、弛むことなく夢に向かって真一文字に向かってほしい。僕は今世での己の使命を悟った。この道はつらく険しいものになりそうだが、創造することが苦しみなら、僕はいくらでも苦しもう。それは、左利きの美学に他ならない。
・・・そんなことを考えながら、今日も左腕でエンピツを走らすとするか。
Shuichi Hatta
2004.3.3