Essay 24  恋とはかくも素晴らしきもの
公開中の映画『ラブ・アクチュアリー』を観た。ヒュー・グラント演じる英国宰相と秘書との恋を軸にしながら、総勢19名のキャストで日常の様々な恋愛模様を描いた心温まるコメディだ。バレンタインの頃だったからか、館内の席という席は皆幸せそうなカップルで埋め尽くされていた。誰もが経験したことのある子供の頃の初恋、片思い、そして実らなかったあの恋・・・映画にしろ絵画にしろ音楽にしろ、芸術はいつも恋に主題を求めてきた。音楽に関して言えば、ヒットチャートはいつも恋愛の歌で溢れている。
まだメジャーデビューしていない身で恐縮だが、恋の歌を書く時は最大公約数の共感を呼ぶ作品をつくろうと常に苦闘する。近い将来、それが陽の目を見る事を信じて。男女同権が声高に叫ばれ、結婚した夫婦の1/3が離婚に至る時代になっても、人は愛を求めて彷徨い続ける。恋愛をしなければ、人間は本質的に生きることができない。

かつてTBSの『ザ・ベストテン』で司会を長く務めた女優の黒柳徹子さんが、森光子さん主演の『放浪記』舞台挨拶でこんな事を話していた。
「神様は本当に仲のいい男女の名前を一枚の紙の左右両方に書いて、破って空から撒くのですって。ぴったり合うような男性にめぐりあっても、紙を合わせてみて、あいだに1ミリでも隙間があったらだめ。ぴったりあった時が本当なの、っておっしゃって。だから、私は今も結婚をしていないのですけれど」

上の発言を聞いて、プラトンの「男女は、かつて一本の骨であったものが二つに分かれ、後世に遭遇したものである」という言葉を思い出した。生涯を共にする運命の人に出逢うまでに、天は人間に様々な試練を与える。そしてお互いにとって最も良い時期に、2人を引き合わせる。ごく一部の独身の宿命を背負っている人を除けば、誠実に生きている殆どの人々は幸福な結婚ができるはずだ。人間性が未熟な人は、自分を磨くことを覚えなければ愛なき愛を彷徨することになる。人間は、自分が他人の幸福を願うようになると、自然と自分の幸福を願ってくれる人に出逢うことができる。自分が他人の不幸を願えば、必ず己が不幸になる。いつも誰かを恨んだり、他人の悪口を言っている人間は底なしの不幸に落ちる。
自分が変われば、目の前の世界が変わる。自分を変えるのは、結局のところ自分しかいない。
先日、ある一人の外務官僚が亡くなった。一貫して朝鮮問題に携わり、拉致や核の問題解決に文字通り命を賭していたという。「仕事が一段落したら結婚したい」と語っていた彼は、最愛の女性を残して44歳の若さで腎臓ガンに斃れた。死の床でなおも彼は国家の行く末に、そして婚約者との未来に思いを馳せていたに違いない。今世では成就することのなかったその恋は、必ずや来世に引き継がれることだろう。

「恋は目でなく心で見るもの」とはシェークスピアの『真夏の夜の夢』の一節だ。
人間は誰でも、たった一度は命賭けで恋をする瞬間がある。恋ほど、素晴らしいものはない。自分の身の周りで起きる様々な出来事に悪戦苦闘しながらも、人生の伴侶に辿り着く過程を大切にしたい。そして、自分たちの先祖がそうしてくれたように、いつか産まれてくる新しい生命に、精一杯の愛を注いでゆこう。

・・・死と再生の連還に思いを馳せつつ、今日も恋の歌を紡ぐとしようか。
Shuichi Hatta
2004.2.26