Essay 21  食べることについて
昔から、美味いものには目がなかった。甘いものも大好きだったから、小学生時代は肥満児で通って いた。それでも、両親には人一倍美味いものを食べさせてもらったと感謝している。今日は同僚のT 君と仕事帰りに焼き鳥を食べに来た。お客さんが多く、まだ注文したばかりだから暫くは来ないだろ う。それまで、このエッセイでも書こうか。今週、大阪で親が子を餓死寸前に追いやるという凄惨な 事件が起きた。発見時は体重僅か24キロで、意識も戻らぬままだという。人間が生命を維持する為 に不可欠な「食事」を、自ら産み落とした最愛の我が子に与えないとは一体どういうことか。

アングロサクソン主導で作られた戦後の教育基本法と日教組の偏向教育は、戦後一貫して“歪んだ” 子供たちを量産してきた。他人の介入を嫌い、友情の意味を知らない子供が競争と怒りの中で大人に なってゆく。「育ち方」とは「育て方」のひな型だ。愛を知らない人間は、結婚して子供ができても愛し 方がわからない。自分の子供を“異物”として攻撃し、かくて虐待の連鎖は続いてゆくのである。 以前ある週刊誌を読んでいたら、“女子高生の異常食”という記事が載っていた。その内容に、僕は 目を疑った。最近の高校生は、食べること自体が面倒臭いらしい。とりあえず片手にはいつもジャン クフード。あまり噛みたくないから、ご飯やカップラーメンには牛乳をかけて食べる。コーラは毎日 2リットル。母親の作ったものは一切食べない・・・これは何を意味しているか?立派な“うつ病” である。栄養のない食物の多量摂取は脳を破壊し、身体能力や思考力を著しく退化させる。それは、 凶悪な少年犯罪を生む温床となる。愛を知らない親に愛されなかった子供にとって、一家団欒の場 であるはずの食卓は、耐え難い苦痛の場所になっているのだろう。

「世間」という言葉は、梵語(サンスクリット語)で「壊され、否定されていくもの」という意味だった そうだ。ならば、“世間を渡る”ということは、本物の愛にも友情にも飢えている10代にとって、 まさに薄氷を踏むようなことなのかもしれない。

懐石料理店「辻留」の二代目主人・故辻嘉一が、包丁の扱い方について生前こう話していた。 「料理の下手なうちは念を入れて扱うから手を切らない。上手になれば勿論手を切ることはない。大 切なのはこの中間、この時期が最も手を切りやすい」

この包丁を人生に置き換えてみれば、“大切な中間”とはまさに成熟した大人への前段階にあたる 10代を指すだろう。普通にものを食べる事というのは、イコール他者を受け入れるということだ。 他者と交流することを恐れ、深いところで己の心を閉ざしている人が拒食症になったり、味覚が狂っ てしまうのだと思う。たやすく心の病にかかりやすいこんな時代だからこそ、もっと自分を愛してみ よう。もっと誰かに優しくしてみよう。すれば、必ず心からご飯を美味しいと感じることができるだ ろう。手を切る(人生に躓く)恐れも少なくなるはずだ。
たった一度の人生である。美味しいものを 食べなかったら、この世に生まれ出た愉しみを放棄しているようなものだ。

作詞家としていつか大ヒット曲を放ったら、銀座の「久兵衛」で寿司を奢ると約束をしている親友が二 人ほどいる。彼らにホラ吹きと言われないためにも、いい歌を早く世に送らねば。魯山人の器と対面 できる日を楽しみに、明日からもまた頑張ろう。

お、ようやく皿が来た。では、これから焼き鳥に舌 鼓を打つのでこの辺で。
Shuichi Hatta
2004.1.28