Essay 20   夢を見せるということ
「リッチでないのにリッチな世界などわかりません。 ハッピーでないのにハッピーな世界などえがけません。夢がないのに、夢をうることなどは・・・とても。・・・」

こう書き遺して、稀代のCMディレクター・杉山登志が自裁したのは、昭和48年のことだ。
当時、大量消費社会の先兵と指弾された広告業界。その申し子の死は、薄っぺらな幸福の追求に狂奔 する世間に、非常に大きなセンセーションを巻き起こした。僕も求人雑誌でコピーを書いたり、バン ドの作詞をした時にはどれだけ多くの人に届いたか、反響があったかに一番神経を尖らせる。君の創 った広告のお陰でいい応募者が来た、あなたの書いた詞に感動しましたと言ってもらった時の感激は、 それを生みだした人間にしかわからない。逆に反応が悪かった時は、広告主への申し訳ない気持ちや 自分の作品が共感を得られなかったことでの挫折等、筆舌に尽くしがたい苦悩と格闘せねばならない。 それは文字通り、身を削る戦いである。
かつて、あの東京ディズニーランドでアルバイトをしたことがあった。昭和58年の開園以来、全国 の人々に多くの夢を与えてきた日本最大の遊園地だ。

僅かな期間だったが、20代から50代までの 実に様々な世代の人々と共に働いた。
人間的に素晴らしい人が多かったが、皆それぞれ、大なり小な り人生の苦悩を抱えていたようだった。 しかしどんなに辛い過去があっても、夢を見に訪れる客に対 しては、最上の笑顔を振り撒くことを忘れない。朝は4時に起き、7時半にはパークの警備に就き、 16時に終えるという毎日。帰りの電車を待つJR舞浜駅のホームから、夕焼けに染まる葛西臨海公 園の観覧車を見ては、胸中に湧き上がる希望を確認する日々であった。

東京に就職した今でも、仕事 帰りに京葉線の車窓からハーバーで打ち上がる無数の花火を見る度に思う。大衆は、決して“ウソ” が好きなのではない。ハッピーな世界で一生懸命に“ウソ”を演じるピエロの哀しさに、一時感じ入 るのだ、と。
明治・大正・昭和を生き抜いた一代の無頼派作家・永井荷風がこんな言葉を遺している。

「賞賛、実にこれほど麗しいものはない。恋も事業も芸術も、あらゆる美徳も、つまりは此の麗しい声 を聞かんが為めに生きている」

大衆に夢を売るという作業は、常に極限の歓喜と慟哭を同伴することに等しいと思う。もし、夢を見 せる職業の人間に出会うことがあったら、その時はどうか惜しみない拍手を送ってあげてほしい。それで救わ れるものが、かなりあるはずだ。僕も再び、来世も人間に生まれ変われるなら、普通に“夢を見る” 側の人生を送りたい。そして、そこから夢を売る人々へ、精一杯の声援を送ろう。

菫(すみれ)程な 小さき人に 生まれたし 漱石
Shuichi Hatta
2004.1.22