「リッチでないのにリッチな世界などわかりません。
ハッピーでないのにハッピーな世界などえがけません。夢がないのに、夢をうることなどは・・・とても。・・・」
こう書き遺して、稀代のCMディレクター・杉山登志が自裁したのは、昭和48年のことだ。
当時、大量消費社会の先兵と指弾された広告業界。その申し子の死は、薄っぺらな幸福の追求に狂奔
する世間に、非常に大きなセンセーションを巻き起こした。僕も求人雑誌でコピーを書いたり、バン
ドの作詞をした時にはどれだけ多くの人に届いたか、反響があったかに一番神経を尖らせる。君の創
った広告のお陰でいい応募者が来た、あなたの書いた詞に感動しましたと言ってもらった時の感激は、
それを生みだした人間にしかわからない。逆に反応が悪かった時は、広告主への申し訳ない気持ちや
自分の作品が共感を得られなかったことでの挫折等、筆舌に尽くしがたい苦悩と格闘せねばならない。
それは文字通り、身を削る戦いである。 |
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かつて、あの東京ディズニーランドでアルバイトをしたことがあった。昭和58年の開園以来、全国
の人々に多くの夢を与えてきた日本最大の遊園地だ。
僅かな期間だったが、20代から50代までの
実に様々な世代の人々と共に働いた。人間的に素晴らしい人が多かったが、皆それぞれ、大なり小な
り人生の苦悩を抱えていたようだった。 しかしどんなに辛い過去があっても、夢を見に訪れる客に対
しては、最上の笑顔を振り撒くことを忘れない。朝は4時に起き、7時半にはパークの警備に就き、
16時に終えるという毎日。帰りの電車を待つJR舞浜駅のホームから、夕焼けに染まる葛西臨海公
園の観覧車を見ては、胸中に湧き上がる希望を確認する日々であった。
東京に就職した今でも、仕事 帰りに京葉線の車窓からハーバーで打ち上がる無数の花火を見る度に思う。大衆は、決して“ウソ”
が好きなのではない。ハッピーな世界で一生懸命に“ウソ”を演じるピエロの哀しさに、一時感じ入
るのだ、と。 |
明治・大正・昭和を生き抜いた一代の無頼派作家・永井荷風がこんな言葉を遺している。
「賞賛、実にこれほど麗しいものはない。恋も事業も芸術も、あらゆる美徳も、つまりは此の麗しい声
を聞かんが為めに生きている」
大衆に夢を売るという作業は、常に極限の歓喜と慟哭を同伴することに等しいと思う。もし、夢を見
せる職業の人間に出会うことがあったら、その時はどうか惜しみない拍手を送ってあげてほしい。それで救わ
れるものが、かなりあるはずだ。僕も再び、来世も人間に生まれ変われるなら、普通に“夢を見る”
側の人生を送りたい。そして、そこから夢を売る人々へ、精一杯の声援を送ろう。
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菫(すみれ)程な 小さき人に 生まれたし 漱石 |
Shuichi Hatta
2004.1.22 |
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