Essay 19  アジワード社会の陥穽
「この国は、もう峠を過ぎてしまったのかもしれませんね」
司馬遼太郎が、亡くなる直前にこう話していた。来月の12日で司馬が没して早8年を迎えるが、新 聞やニュースに目を通すと、その言葉が真実味を帯びているように思えてならない。

電車に乗っていると様々な雑誌の中刷りが目に入るが、そこには声に出すのも憚るような汚い言葉が 並んでいる。物凄く汚い言葉で相手を罵って、罵声を浴びせるような言葉を『アジワード』と言うが、 日本はまさに今『アジワード社会』ではないだろうか。ひと昔前の日本人なら絶対に使わなかった下 劣な言葉が、職場でも家庭でもまかり通っている。アメリカが占領時代に撒いた「個人主義」という名 の毒薬が、60年の時を経ていよいよ国家全体に回ってきたという事か。
週刊誌ではいっぱしのジャーナリスト気取りがアノニマス(匿名)で様々な事象に対しての中傷記事 を書く。批判された側も、息のかかった御用メディアで負けじと応戦する。どこまでいっても、救い ようのない“業”が渦巻く世界である。日常的に他人の悪口を言ったり、憎しみや嫉妬の情念から愚 痴を吐いている人間は、言葉の大切さを理解していない。Essay 1でも書いたが、言葉とは“神”で ある。神聖な存在を、俗物たる人間が好きなように扱ってはならない。言葉は人間を勇気づけたり、 励ましたり、よりよい人間関係を構築する為に存在するものだ。

ネット最大の掲示板として社会に隠然たる影響力を持ってきた「2ちゃんねる」も、近年は名誉毀損訴 訟で連敗が続いている。何故か?答えは簡単。ただ単に、人間の姿をしたボウフラによる醜悪なアジ ワードの溝と化したからだ。建設的な書きこみがあった頃はよくアクセスしたものだが、もうここ1 年は見ていない。おそらく、もう見ることはないだろう。貴重な時間の無駄遣いだ。 アノニマスの掲示板とは結局のところ、誰もが青年期に一度は触れる左翼思想と根っこは同じである。 ちょっと問題意識を持った人間なら誰でも参加してみる。しかしその空気の異常さに呆れ、あるいは 失望して大半の人間はほどなく去ってゆく。いつまでもそんな場所にしがみつくのは無益だという事 を、正常な人間は気付いているのだ。人間は万物の霊長である。人生の果実を味わう楽しみを、放棄 してしまってはいけない。狭隘な空間で毒を吐くのはやめて、大地の風を思いきりほおばる事を覚え てみてほしい。

ヘルマン・ヘッセが1937年に、次のような詩を書いている。
「人間の言葉は みんな結局まやかしなのだ/比較的にいって 私たちがいちばん正直なのは/おむつ に包まれているとき そして 夢の中だ」

今年の成人式も、例によってまた荒れたようだ。挨拶に立った来賓にこの上ないアジワードを浴びせ、 無断で壇上に上がり垂れ幕を破るなど大暴走。捕縛された新成人は「面白半分でやっただけ。こんな 大事になるとは思っていなかった。悪いことをした」と幼稚園児のような言い訳を吐いた。偉そうに 自己の権利は主張するくせに、咎められると驚くほど従順になる。本来、成人式は子供を喜ばせる為 にあるわけではない。厳しい大人社会の構成員になるんだぞ、という事を自覚させる儀式なのである。 ネットの世界には、成人も子供も関係ない。急速なユビキタス社会の浸透は、いわゆる“引きこもり” の世帯数を飛躍的に増大させたと思う。“心の成人”になれなかった子供が、アノニマスの世界で自 己の存在を肥大化させる。やたらとブリッシュ(強気)な発言をして、一般社会に参画しているよう な充足感を求める。しかしそれが錯覚だと気づいた時、彼らは本物の社会に牙を向け始めるだろう。 人生を豊かにする術は、インティマシー(家族や友人等、親しい人々とのつき合い)を生活の根本に 据えることだ。社会への不適応者を救うシステムを構築せねばならない。

ひょっとすると、現在の我が国の繁栄は、あらかじめ定められた没落を前に放たれた最後の燐光なの か?この国を時計に喩えるなら、いま午後3時くらいだろう。これ以上、時計の針を進めてはいけな い。

・・・重ねて思う。この国は、大丈夫だろうか?まだ、大丈夫だと信じたい。
Shuichi Hatta
2004.1.15