「この国は、もう峠を過ぎてしまったのかもしれませんね」 |
司馬遼太郎が、亡くなる直前にこう話していた。来月の12日で司馬が没して早8年を迎えるが、新
聞やニュースに目を通すと、その言葉が真実味を帯びているように思えてならない。
電車に乗っていると様々な雑誌の中刷りが目に入るが、そこには声に出すのも憚るような汚い言葉が
並んでいる。物凄く汚い言葉で相手を罵って、罵声を浴びせるような言葉を『アジワード』と言うが、
日本はまさに今『アジワード社会』ではないだろうか。ひと昔前の日本人なら絶対に使わなかった下
劣な言葉が、職場でも家庭でもまかり通っている。アメリカが占領時代に撒いた「個人主義」という名
の毒薬が、60年の時を経ていよいよ国家全体に回ってきたという事か。
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週刊誌ではいっぱしのジャーナリスト気取りがアノニマス(匿名)で様々な事象に対しての中傷記事
を書く。批判された側も、息のかかった御用メディアで負けじと応戦する。どこまでいっても、救い
ようのない“業”が渦巻く世界である。日常的に他人の悪口を言ったり、憎しみや嫉妬の情念から愚
痴を吐いている人間は、言葉の大切さを理解していない。Essay
1でも書いたが、言葉とは“神”で ある。神聖な存在を、俗物たる人間が好きなように扱ってはならない。言葉は人間を勇気づけたり、
励ましたり、よりよい人間関係を構築する為に存在するものだ。
ネット最大の掲示板として社会に隠然たる影響力を持ってきた「2ちゃんねる」も、近年は名誉毀損訴
訟で連敗が続いている。何故か?答えは簡単。ただ単に、人間の姿をしたボウフラによる醜悪なアジ
ワードの溝と化したからだ。建設的な書きこみがあった頃はよくアクセスしたものだが、もうここ1
年は見ていない。おそらく、もう見ることはないだろう。貴重な時間の無駄遣いだ。
アノニマスの掲示板とは結局のところ、誰もが青年期に一度は触れる左翼思想と根っこは同じである。
ちょっと問題意識を持った人間なら誰でも参加してみる。しかしその空気の異常さに呆れ、あるいは
失望して大半の人間はほどなく去ってゆく。いつまでもそんな場所にしがみつくのは無益だという事
を、正常な人間は気付いているのだ。人間は万物の霊長である。人生の果実を味わう楽しみを、放棄
してしまってはいけない。狭隘な空間で毒を吐くのはやめて、大地の風を思いきりほおばる事を覚え
てみてほしい。
ヘルマン・ヘッセが1937年に、次のような詩を書いている。
「人間の言葉は みんな結局まやかしなのだ/比較的にいって 私たちがいちばん正直なのは/おむつ
に包まれているとき そして 夢の中だ」
今年の成人式も、例によってまた荒れたようだ。挨拶に立った来賓にこの上ないアジワードを浴びせ、
無断で壇上に上がり垂れ幕を破るなど大暴走。捕縛された新成人は「面白半分でやっただけ。こんな
大事になるとは思っていなかった。悪いことをした」と幼稚園児のような言い訳を吐いた。偉そうに
自己の権利は主張するくせに、咎められると驚くほど従順になる。本来、成人式は子供を喜ばせる為
にあるわけではない。厳しい大人社会の構成員になるんだぞ、という事を自覚させる儀式なのである。
ネットの世界には、成人も子供も関係ない。急速なユビキタス社会の浸透は、いわゆる“引きこもり”
の世帯数を飛躍的に増大させたと思う。“心の成人”になれなかった子供が、アノニマスの世界で自
己の存在を肥大化させる。やたらとブリッシュ(強気)な発言をして、一般社会に参画しているよう
な充足感を求める。しかしそれが錯覚だと気づいた時、彼らは本物の社会に牙を向け始めるだろう。
人生を豊かにする術は、インティマシー(家族や友人等、親しい人々とのつき合い)を生活の根本に
据えることだ。社会への不適応者を救うシステムを構築せねばならない。
ひょっとすると、現在の我が国の繁栄は、あらかじめ定められた没落を前に放たれた最後の燐光なの
か?この国を時計に喩えるなら、いま午後3時くらいだろう。これ以上、時計の針を進めてはいけな
い。
・・・重ねて思う。この国は、大丈夫だろうか?まだ、大丈夫だと信じたい。
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Shuichi Hatta
2004.1.15 |
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