Essay18   手づくりの翼
「私は今日君達に言う。たとえ我々が過去、そして未来の問題に直面しようとも、私はまだ夢を持っている。これを信じ、我々がいつか自由になることを知れば、共に努力し、共に闘い、共に監獄に入り、共に自由の為に立ち上がることができる」

年頭にあたって、マーチン・ルーサー・キング牧師の言葉を引いてみた。21世紀も始まって早4年になるが、どうやら世界はカオス(混沌)の迷宮に入り込んでしまっているようだ。新聞を眺めても、明るいニュースを見つけるのに一苦労。イラク派兵の問題はいよいよ我が国が“戦前”に入ったことを予感させるし、“フリーター400万人時代”の出現は国家の存立基盤そのものを揺るがせる危険性を孕んでいる。たやすく絶望を見いだせる時代に、希望の糸口を掴むことは容易ではないのかもしれない。

正月から夢のない話で恐縮だが、今後の日本は厳然たる階級社会、差別社会の時代に入る。現宰相の説く「構造改革」とは、端的に言えば“強者の権益を守る為の弱者切り捨て”政策だ。資本主義にみせかけた戦後の社会主義政策は大衆に“一億総中流”という意識を植え付けたが、ピラミッドは“上流階級”と“下層階級”にこれから明確に収斂されるだろう。しかしこの仕組みは、英国型の貴族社会や韓国型の閥族社会の如く、出自で人生のゴールが決まってしまうような絶望的な社会ではない。本人の努力次第で、いくらでも這い上がることが可能な“自己責任型社会”である。力無き者、才を持ち合わせない者にとっては非常に生きづらい時代かもしれない。だからこそ、競争に勝った人間は、それに負けた人間、あるいは競争そのものを回避した人間が集う層の未来に、思いを馳せる心が必要だ。それなくして、社会の安定はあり得ない。前向きに生きる我々は、自己の能力をスキルアップすると同時に、常に人格も陶冶してゆきたい。冷酷なメリトクラシー(実力主義)社会ではなく、忠恕(ちゅうじょ=思いやり)の連鎖をつなげてゆく社会。その実現こそが、人の道というものではなかろうか。僕は最初に籍を置いた大学で法律を学んだが、そこでわかったことは、人間は皆、法律や規則だけでは割り切れない生き物だということだった。傷つき、落ちこぼれ、悲しみに打ち震えている人の側に、いつも自分は立っていたいと思う。

今年は俳聖・松尾芭蕉の生誕360年にあたる。芭蕉は「不易流行」という言葉を俳諧の理念としていた。「不易」とはどんなに時代が移ろうとも変わらない普遍の心、「流行」とはその名の通り世間の人々が求めるものを指す。永遠に変わらないものを大切にしながら、最新のものを上手く取り入れてゆく━それは俳句のみならず、音楽をはじめ芸術全般にも幅広く求められる姿勢だ。僕も「不易流行」の気持ちを大切にしながら、今年も己の言葉に関してはどこまでも狷介でありたい。その先に、ひとりでも多くの人々との感動があれば至上の喜びだ。絶望は無用。今年も共に、希望と共に歩んでゆこう。
最後に、寺山修司の詩の一節を紹介したい。
「翼が鳥をつくったの
ではない/鳥が翼をつくったのである」

・・・今、風を受け
順風満帆。
手づくりの翼を広げて、いざ新しい空へと飛翔せん!

                                       Shuichi Hatta
                                      2004.1.6