Essay17 我が胸中に歌ありて |
少し前になるが、テレビで星野哲郎先生の作詞家生活50周年を記念する番組を放送していた。山口で育った氏は元々漁業に従事していたが、大病を患い作詞家に転身したという。「全ての歌が人生の応援歌」という作詞の神様は、番組の最後にこう締めくくった。
『感謝してます、歌に』
僕はEssay8の最後に「歌がある限り、希望の轍が途切れることは、ない」と記した。歌はいつの時代も、人々の心を救ってきたのである。特に注目すべきは、昭和30年代の歌謡曲だ。敗戦の失意から立ち上がった日本国民を勇気づける佳曲が、綺羅星の如く登場した。その中でも、一際光彩を放ったのが春日八郎の『別れの一本杉』であった。故郷に残した恋人との別れを描いたこの歌は、「金の卵」と呼ばれる中卒者の集団就職が始まった時代背景とあいまって爆発的なヒットを記録。今も昭和の歌謡史に燦然と輝く金字塔だ。この歌は、高野公男という青年によって作詞された。茨城で貧しい画家の子として生まれた高野は、どん底の少年時代を乗り越え東洋音楽学校(現・東京音大)に入学。ここで生涯の盟友・作曲家の船村徹氏と出逢う。米国追随の当時の世相を傍目に、いつか『旧き良き日本』を見直す時代が来るという信念で“望郷の歌”を彼は日々紡いでいった。そしてレコード会社に日参した甲斐あって、ついに船村氏とのコンビで大ヒット曲を出すも直後に肺結核で天界へと旅立ってしまう。享年26。芸術への高みの途上で人生の幕引きを余儀なくされた彼の無念は、察して余りある。彼が長生きしていたら、大衆の心を揺さぶる詞をもっと世に残すことが出来ただろう。しかし作品は、創造者の肉体が滅んでも生き続ける。作品に込めた作者の魂が、現世に生きる人々の心と共振しあうのである。僅かな時間ではあったが、生前にその力量を認められた高野は、芸術家として幸せだったのではないだろうか。
作詞というのは、結局無駄と経験の集積であると思う。いわゆる頭のいい人たちが拠り所とする“理屈”と“効率”で、いい言葉が出来上がるとはとても思えない。そうやって完成した詞が人の心を動かせるとは、とても思えないと最近わかるようになった。様々な人と話し、心を通わせ、痛みを共有せねば、本当の意味で人々の心には残らない。 |
僕は今年、高野公男の享年を抜き去った。生来、体は頑強で生命力に満ち溢れているから、おそらく高野の倍以上生きることが出来るだろう。残りの人生で、一体何篇の歌を書けるだろうか。絶望の淵にある人を、希望の橋へと導いてあげられるような歌。40年、50年経っても大衆が愛唱してくれるような歌。そういう歌を一曲でも世に残せたら、僕はいつ死んでも構わない。キイノート(音符)にやさしく手を引か
れて、魂の詞を今日も産み落とすのだ。
いよいよ本格的な冬到来である。厳しい寒さを乗り越えた木々は、来春には必ず鮮やかな新緑を燃やしている事だろう。
来年も共に、希望への試みを続けましょう。ご愛読に深謝。
今年はこれにて失敬。 |
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Shuichi Hatta
2003.12.26 |
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