Essay16   それでも人は出逢うんだろう
クリスマスが近づいてきた。街は化粧を終え、愛を語る恋人達と夢を想う子供達の為に精一杯のもてなしをしている。幸せそうな顔とすれ違うと、こちらまで心が温かくなる。その笑顔がいつまでも続くように、とささやかな祈りを天に捧げたくなる。
今年も、多くの人々との出逢いがあった。本当に、素晴らしい出逢いに恵まれたと思う。今生で命を燃やす限りはずっと一緒に歩いてゆけるような人達との邂逅があった。井伏鱒二は「サヨナラダケガ人生ダ」と云ったが、何故、いつか別れるとわかっていても、人間は出逢いを求めるのだろうか。
直木賞作家の小池真理子氏が、朝日新聞に次のような文章を寄稿していた。
「人と人は永遠に遠い。遠いからこそ、少しでも近しくなりたいと願うのです。その切ない願いを温めていくことは、人類永遠の美しい営みである」
人間とは、ひとりでは未完成の生き物である。ひとりでは決して、生命を維持することはできない。だからこそ、心から許しあえる友人を、恋人を、そして家族をつくろうと願う。共振し合える同志を欲する。


ユビキタス社会になり、ネットを介した人間関係をつくる作法が飛躍的に浸透した。パソコン・携帯などで行き交うメールの数は一日2億通という。顔を合わさない時でも、心の繋がりを求めて人は言葉に自分の思いを託す。

僕には、まだ一度も会ったことのないメル友が2人いる。1人は同い年の女性で、結婚を約束した男性が重い病で倒れ、埼玉と彼が療養する石川を往復しているという。好きな音楽の話、仕事の話などをしながら、ひたむきに生きる彼女にいつもエールを送る。もう1人は誰もが羨む、しかし非常に厳しい世界でエトアールとして多くの人々に夢を与えている。どんなに精神的に辛いときでも、気丈に大衆の夢を背負って生きる彼女を、尊敬せずにはいられない。相手の心に少しでも安らぎの灯が点るように、僕は魂の言葉を親指に賭ける。2人とも、声も顔も知っている。いつか、会う時が来るかもしれない。
一生会うことはないかもしれない。いずれにせよ、一本の電子ラインで繋がった縁を、今は大切にしなければならないと思う。一生懸命生きている人には、自分の福徳を分けてあげなければいけない。

敬虔なクリスチャンとして生きた内村鑑三は、世紀の名著『後世への最大遺物』で、後世へ遺すものとして「建造物」「お金」「教育」「子供」等を挙げた後、それらをどれも遺すことができない人々へ「勇ましい高尚なる生涯」を遺しなさいと説いた。他人様に人の道を説くには僕はまだ余りにも未熟すぎるが、あえて言わせてもらうなら、人生はとことん演繹(deduction)思考で生きればいい。人間は、一度や二度の失敗は克服できるようにプログラミングされている生き物だ。帰納的(induction)人生という名のつまらない安定よりも、前向きに生きる我々はあえて“瑞々しい不安定”を選ぼうではないか。気の合う仲間と一緒に、心ゆくまで希望を語ればいい。口笛を吹きながら夜を往こう。それこそが“高尚なる生き方”というものだ。

明日もまた、そして明後日もまた、新しい人と出逢うだろう。いつか別れるとわかっていても、新しい出逢いに胸を弾ませずにはいられない。これまで出逢えた、そしてこれから出逢うすべての人に感謝しつつ、今宵は蒼穹に響く鈴の音に、静かに耳を傾けたい。

Shuichi Hatta
 2003.12.16