Essay 15  本と共に生きる
写真は僕の書庫である。もう、全部で何冊所蔵しているかは分からない。作詞や音楽関連の書籍は、創作中にすぐ引っ張り出せるようにしてあるので机に並べてある。幼稚園の頃は、書棚に並べてあった百科事典を毎日ペラペラめくっていた。勢いよくページをめくりすぎて、指を切ってはよく泣いていたのを思い出す。中学時代は、太宰治に大きな影響を受けた。彼は、昭和十年の書簡でこう書いている。
「不滅の芸術家であるという誇りを、いつも忘れてはいけない。ただ、頭を高くしろという意味ではない。死ぬほど勉強しろということである。and then ひとの侮辱を一寸も許してはいけない。自分に一寸五分の力があるなら、それを認めさせるまでは、一歩も退いてはいけない」

このテクストに衝撃を受け、爾来天才になれない筈の凡才は現在に至るまで必死に左腕を動かしている。「米は体の栄養、本は頭の栄養」とはよく云うが、最近は頭の栄養失調に陥っている10代が多いのが少々気になるところだ。

今年の大ベストセラー『バカの壁』の著者・養老孟司氏が、少し前に次のような文章を書いていた。

「ロボットの権威・森政弘東工大教授は、ある日研究室に米国製の旋盤を入れた。めったに壊れない製品だったが、とたんに院生の扱いが荒くなった。次に、オーストラリア製の旋盤を入れた。高性能だが、壊れやすい部品だ。すると学生たちは機械の扱いが良くなり、みな上手になった。壊れない機械を使うと、人間の方が壊れてしまう」


先月の大阪一家殺傷事件で逮捕された男の大学生と女子高生も、犯行の前に自殺や殺人のマニュアル本を多数乱読していたという。壊れた人間は壊れた本を読み、結果社会を壊しにかかる。教科書は何も、教えてはくれない。何がいい本で何が悪い本かを見抜く能力を、独力で涵養することが大切だ。良書は偉大な思想家との対話、良友は輝かしい未来との対話である。この“静と動の対話”を長く続ければ、見えなかったことが見えてくる。人生がより、豊かになる。

竹久夢二作「トランプをする娘」の背景にも描かれた歌妓・杜秋娘が、『唐詩三百首』の中で次のような詩を残している。

「花開いて折るに堪えなば直ちに須らく折るべし。花無きを持って空しく枝を折る莫かれ」


花が咲いたら頃合いの時期に手折るがいい。花が散った後に枝だけ折っても何にもならない。転じて、生涯に一度しかない青春の時期を、他に何にも増して大切にすべしーという訓えだ。本を読む習慣をつけるなら、若いうちしかない。青春時代に本を読まずして、一体いつ読むのか。電車の中で大人がマンガを読む国は日本だけだ。ポケットの中にはナイフではなく、心に残るよい本を一冊忍ばせてほしい。

三木清は『人生論ノート』の中で、

「深く執着するものがある者は、死後自分が帰ってゆくべきところを持っている」

と記しているが、これからも僕は言葉を読むこと、そして言葉を書くことに執着してゆきたいと思っている。
そういえば、小林秀雄がこんなことを言っていた。

「知る者は言わず、言う者は知らず」


・・・どうやら僕は、まだまだモノを知らないようだ。

Shuichi Hatta
 2003.12.4