Essay 14   さらば、愛しき危険たちよ
未成年による凶悪な犯罪が全国で多発している。千葉では女子高生がリンチで惨殺され、松山では16歳の少年が同居女性の連れ子に暴行。福島では15歳の強盗婦女暴行犯に、初めて刑事罰が下された。

暴走族の40%はバックに暴力団がおり、上納金の為に犯罪を行うという負の連鎖が起きている。長年10代の心情を綴った歌を紡いできて、少しは10代の気持ちがわかった気になっていたが、ここまで事態が悪化すれば、もはや子供のやんちゃという範疇ではないと思う。それでも「未来ある子供たちに寛大な処置を」という美名の下、さしたる反省もなく加害者は舌を出して社会へ戻っていく。一体、いつまで少年法を教育刑にしておく気であろう。
つきつめると、やはり戦後の教育が間違っていたということに尽きる。「平等」「自由」「人権」等の耳障りのいい言葉で、偏った思想が長年教育の場で展開されてきた。その教育を受けた子供が親になり、その子供たちの世代が今、まさに荒れている。他人への思いやりを欠いた自由など、どこにあろうか。

平和の象徴とされる鳩は、実は戦い始めると獰猛で相手が死ぬまで攻撃を続けるという。その凶暴さは、外見からはとても想像がつかない。日本も、残酷な鳩がひしめく国になってしまったのか?

今から9年前、社会党の党首を首班とする“ハト派”内閣が突如、日本に登場した。選挙による国民のマンデート(お墨つき)を得ることなく成立した、保革大連立政権。その先にあったものは、阪神大震災の“5千人見殺し”という悲劇であった。嗚呼、デモクラシー、でも昏し。ハトという名の戦後民主主義は、50年目にその欺瞞を白日の下に曝したのである。

式亭三馬の『浮世床』に、こんな下りがある。
「化物は怖かないが、馬鹿ものがこはい」

レルバントな(適切な)言葉ではないが、現代社会にも、少々馬鹿ものが増えすぎた。理性で物事を分別することを忘却し、軽々しく感情の閾値を超えた末の行動がいかに社会にとって迷惑かということを、厳罰以外で何で当人に悟らせるというのか。“自由”とは、自分で責任を取った上ではじめて主張できる権利なのである。

劇作家の平田オリザが、次のような文章を書いている。
「私たちがこれから作ってゆく成熟社会の緩やかな絆は、お互いが分かり合えないという絶望から出発する。この絶望の中にのみ希望はある。だとすれば、分かり合えないことを、その存在の根拠とする芸術の役割は小さくないだろう」

未成年の皮を被った獣は、社会が裁かねばならない。さらば、愛しき危険たちよ。僕はささやかな闇を抱きながら、再び言葉の旅へと踵を上げることにしよう。

・・・ラジオから、Mr.Childrenの「くるみ」が流れてくる。
だんだん目が曇って、画面に映る字が滲んで見えるのは、何故だろう。
Shuichi Hatta
2003.11.27