Essay12  挨拶を侮るなかれ
秋の長雨が続いている。ただでさえ道行く人が多い東京は、雨の日になると一段と歩きにくくなる。かつて、「江戸しぐさ」という共通儀礼があった。江戸時代の賢い町人たちが、お互いを思いやるために編み出した、人類普遍の道徳律とも言える礼儀作法だ。その一つに、「傘かしげ」というものがあった。雨の日に狭い歩道を行き交う人たちが、お互いに傘を傾けあって通りやすくすることをいう。
昔は誰もが当然のようにやっていた仕草なのだが、近頃はこんな「気働き」のできる人はめっきり少なくなった。傘と傘がぶつかっても「すいません」の一言もない。なんとも、ギクシャクとした不快な歩道風景がそこにある。

近年、挨拶をしない(あるいは"できない")人間が増えているという。朝、会社に出勤してきても「おはようございます」の一言もなく、いつのまにか席についている。外出する時も、誰にも言わずに勝手に席を外す。物を借りる時も、「〇〇貸して下さい」の一言もなく他人の引き出しを断りなく開ける…これが、レッセフェール(自由放任主義)の申し子というやつか?いやいや、社会にとってはやはり迷惑だ。これから苦労するのは彼ら自身だとわかっていながら、その行く末を案じずにはいられない。自己中心的な考え方は、他者への無関心、非介入化に繋がる。そういう輩が社会の中心になると、人間は誰かに認められる機会が少なくなる。それは自己肯定感の弱さとイコールとなり、「共感すること」を忘却した人々は他人の痛みを痛みと思わなくなる。なんというヴィシャス・サークル(悪循環)であろう。

先般、総選挙が行われたが、期待とはうらはらに投票率は戦後2番目の低さとなった。菅直人・民主党代表は「あと5%投票率が伸びれば政権交代した」と言ったが、民主党が政権を獲るには無党派ならぬ前出の利己的な「無脳派層」の教育が必要なようだ。

弘法大師・空海は「四量四摂(しよう)」によって世の為に尽くせと説いている。四量とは慈・悲・喜・捨の四無量心を指す。慈は自分以外の他の人に楽を与えること、悲は衆生の苦しみを取り除くもの。喜は人の楽しみを心から喜び、捨とは他人に対して平等な心のことを言う。そして菩薩が人々を救済する「布施」「愛語」など、四つの行いを四摂と言うそうだ。挨拶の少なくなった世の中に、必要な心掛けの一つではなかろうか。

「挨拶」という漢字は"あいさつ"という意味でしか使わないが、元々「挨」は"開く"、そして「拶」は"迫る"という意味である。"自分の心を開いて、相手の胸の中へ迫ってゆくこと"
が、挨拶という言葉の原義である。挨拶のない世の中は、あまりにも寂しい。自分の心を開くことがなければ、決して誰からも理解されることはないだろう。

挨拶とは身を守る鋼鉄の鎧である。そして、強力な魔法の剣である。いい挨拶は、世渡りの最大の防具にして武器である。常に笑顔で、元気良く行えば必ず幸運が舞い込んでくる。明るい挨拶が溢れる世の中ができれば、それは素晴らしいことだ。

…そんなことを考えながら、今日も自宅のドアを開けようか。
Shuichi Hatta
2003.11.13