Essay 11  男は顔に責任を持て
先日、中学の同級生と久々に会った。卒業以来会う機会を得ずに来たが、その間に彼は結婚し、1児の父になっていた。高校卒業と共に地元を離れ、今は葛飾に住んでデパートに勤務しているという。彼の運転で、しばし千葉市内をドライブ。後部座席にあったベビー用椅子が、時の流れを静かに物語っていた。またの再会を約束して家路に着いた後、書庫から中学の卒業アルバムを引っ張りだしてみた。さっきの彼とは別人の、幼い男の子がそこにいた。就職をし、家族をつくり、父となった彼は10年の時を経て、“大人の顔”を自らの努力で形づくったのである。

「顔は人間同士の通路である」という。初対面の人でも、顔を一目見てその人がどういう人生を歩んできたか、幸福に生きているのか、不幸を嘆いているのか直感的にわかる時がある。一生懸命に生きている人、夢に向かって真一文字に進んでいる人の顔は眩しい。既に“片方の通路”が開かれていると気付いた時の安心感。そういう感情を与えてくれる人は、きっと誰に対しても優しくできる人なのだろう。一方、不幸な人の顔を凝視するのは辛い。心の貧しさ、寂しさは必ず顔に出る。生気がない、あるいは他者を拒否する空気。電車に乗ったり、街を歩いていると時々そういう顔とすれ違う。澱んだ心の水辺を浚渫してくれる誰かが現れてくれることを、祈らずにはいられない。

悪事を重ねている人間は、心の汚れが顔に出る。救いようのない汚濁が、顔全体を覆うのである。連立与党の大物議員がテレビに出ているのを見ると、画面全体が暗くなるのを感じる。無告の民を食い物にし、社会に迷惑をかけても恬として恥じないその心。蜚蠕がいいスーツを着て偉そうな事を言ったところで、人に信用される筈がない。顔に品格が出るからである。姑息な生き方をしている人間は、所詮姑息な人生しか歩めない。

昔NHKを見ていたら、りんご農家の老夫婦が映っていた。結婚して40年、ふたりで力を合わせて毎年良いりんごを実らせる事に腐心してきたという。インタビァーがご主人に「奥様と一緒にいて、一番幸せだったことはなんですか?」と尋ねた。するとご主人は「毎日が幸せすぎて、どれが一番幸せだったかはわからないです」と答えていた。ご主人の顔も、奥様の顔も、ひたむきに生きてきた善人の顔そのものであった。

寺山修司が臨終を前にしたノートで、こう書き遺している。
「あらゆる男は、命をもらった死である。もらった命に名誉を与えること。それだけが男にとって宿命と名づけられる」
男は自分の顔に責任を持て。いい顔をつくる事に命を賭けよ。


・・・偉そうな事を言ったところで、自分の顔を鏡で覗くとするか。
Shuichi Hatta
2003.11.6