ふるさと寺小屋塾
「 大津町の歴史 」
講師/大津町文化財保護委員長
吉村昌之 氏より
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清正公の事業 ―― 原野を穀倉地に |
大津町は中央に走る今の国道57号線を境に、
北部の畑地帯と南部の水田地帯へと分かれる。
今でこそ阿蘇の自然と豊富な水に恵まれ、
一大田園地帯を形成しているが、かつては
大津原野とよばれる火山灰土壌が広がっていた。
この荒地に水をひけば耕作のできる土地になる
と見抜いたのは加藤清正である。
肥後の領主として入国する際にこの大津原野を
見た清正は、ここに白川の水をひくことを計画
する。
清正の死後、息子の忠広が土井手の開さく
に着工。
そしてその後は細川氏がこの遺志を継いで、
ようやく水路が完成した。
大変な労力と四十年という歳月が費やされたが、
この大事業によって大津原野は大津千町と
よばれる穀倉地帯へと見事に生まれ変わった
のである。
ところで、この穀倉地帯からとれた穀物を脱穀し、
できた米の粉から作られたのが、
「銅銭糖」である。水車でついたり、石臼でひい
たりした、米の粉を固めたもので、
かつては中にあんも何も入っていないごくシン
プルなものだった。
とはいえ、当時米は貴重品だったので、ある階
級の人しか口にすることはできなかったらしい。
銅銭糖という名前の通り、一銭銅貨を五十枚重
ねたそのユニーク形も、実は庶民の憧れを投影
しているのである。