1
高校生活とは、人生において掛け替えのない宝物と等しいものである。
それは、お金では絶対に買えず、決してやり直すことも出来ない。
勉強に、スポーツに、恋愛に、青春を謳歌し、悔いのない高校生活を送る事が君達の使命なのだ。
勿論、楽しい事ばかりではない。
挫折を味わい、苦境に立たされ、失恋の痛手に心を痛める時もあるだろう。
しかし、これらは自分にとってのハードルであり、十分に努力し、そして考察し、自分を冷静に見つめ直せば、必ず超えられる一種の壁なのだ。
決して逃げたり、避けたりしてはいけない。
たとえ結果が良い方向へ向かわなかったとしても、これらは明日の自分の糧となり、橋になる。
自分は、高校生活の間に、こんな素晴らしい思い出を作りました。
……と、胸を張って言える様な人間になってほしい。
新橋は以前、ブラウン管の中で熱心に語る教育に携わる立場の人間の言葉を思い出した。
そうだ、狩穂高校に入る前、つまり中学卒業目前の時には、それはもう胸をときめかせ、入学する日をまだかまだかと待ち焦がれていたものだった。
まずは部活に入り、友人も多く作り、勉強は……得意ではないものの、自分なりに努力し、精一杯に楽しい高校生活を送るのだろうと考えていた。
しかし……
「……君!孝太郎君!!」
何故かすぐ目の前に不機嫌そうな千葉の顔があった。
「うわぁ!」
新橋は椅子を思い切り仰け反らし、そのまま後ろに倒れそうになったが、何とか持ちこたえる。
どうやら、<裏新聞部>の会議が始まる寸前で、少しうとうとしていたらしい。だが、時間は数分も経っていないらしく、会議も未だ始まっていないようだった。
「まったく……孝太郎君、しっかりしてよね!今後、会議中に寝るなんて言語道断だからね」
「は、はい……すみません」
そうだ、現実はこれなのだ。
楽しい高校生活とは無縁に程遠いだけでなく、よもや犯罪にも加担してしまうのだろうと思うと、一つ溜め息を漏らした。
だが、何故だろう。この千葉と言う女性には、何となく協力しなければという気持ちにさせられる。たとえそれが犯罪行為だとしても。
「うーん、どうも乗り気じゃないみたいね。……蓮華?」
席に戻った千葉は、隣の宮元に目配せし、何かの指示を出す。すると宮元は小さく頷き、無言で新橋の後ろに回りこんだ。
一体何をするのだろうと思っていると。
「ふぅー」
「う、うわぁ!!」
突然、宮元は新橋の首筋に息を吹きかけた。
「ふふ……孝太郎君、さっきから驚いてばかりね」
ゾクゾクした感触に後押しされ、またもや椅子から倒れそうになったが、これも何とか持ちこたえた。
「目は覚めました?」
それだけ言って、宮元は席に戻る。
「どうだ、新橋。宮元の眠気覚ましは効くだろ?」
「な、何でいきなりこんな……」
「それにしても、会議中に眠くなるなんて感心せんな。仮定ではあるが、夜更かしでもしていたんじゃないのか?」
藤枝は、がっちりと腕を組みながら言った。
「……」
新橋は図星を指され、そのまま俯く。
「ふむ。規則正しい生活は、健康な体つくりには欠かせない物事だ。たとえ、今がテスト勉強期間中だとしても、しっかりと睡眠を取らないと体に毒だぞ」
「は、はぁ……」
「まぁ、私なんかの場合には、ほとんど毎日徹夜しちゃってるけどね」
「あたしもー」
そんな会話の中に、千葉、勝己が加わる。
「お前達の場合は、徹夜する理由が不透明だな。どうせテレビか漫画でも見ていて徹夜したんだろう?」
「失礼しちゃうわね!……テレビは、ちょ、ちょっとだけよ」
「あたしも!勉強だよ、勉強!!……漫画のだけど」
千葉と勝己の受け答えによって、<裏新聞部>は暫し談笑に包まれ、同時に新橋の眠気はすっかりと覚めていた。
2
「あの、そろそろ始めても良いかな?」
申し訳なさそうに、南町田が手を上げ、小声で呟く。
「おっと、すまん。今日の会議の目的はお前と勝己のリポート発表だったな」
「それに、大声も自粛しなければいけませんね」
こういうところは、まがりなりにも<新聞部>。気持ちの切り替えが上手い。あっという間に静寂な空間が作られる。
「えーと、昨日の千葉さんのリポートみたいに緻密に……と言うわけにはいかないけれど、とりあえず判りやすくまとめてみたよ」
配られたリポート用紙は全部で三枚。それぞれしっかりとホチキスで止められている。
「今回は新橋君も居ることだし、より詳しく説明するからね」
南町田は、新橋に向かってにっこりと微笑みながら言った。
一枚目には狩穂高校の見取り図が描かれている。
「千葉さんのリポートを整理して考えると、今回、僕達がターゲットとしているテスト用紙は、そのほとんどが職員室に保管されていると思うね」
職員室?ああ、一般教室等の一階か。見取り図で狩穂高校を見たことがなかったので、何か新鮮だな。
<裏新聞部>の皆がリポート用紙に何やら書き込んでいたので、慌てて新橋も鞄から筆記用具を取り出した。
「それで、職員室へと向かう侵入ルートと、職員室からの退却ルートについて、まずは時雨ちゃんから説明してもらうね」
「はいはーい」
待ってましたと言わんばかりに、勝己はピョンと立ち上がり、わざとらしい咳をしてから話し始める。
「えと、あたしが今回考えたのは、職員室へ向かうには特別教室棟一階の窓から侵入して、一般教室棟へと続く連絡通路を通って職員室へ行くルート。それか、隣接している体育館と部室棟を死角に、一般教室一階の窓から侵入して、職員室へ向かうルート」
今までの勝己のイメージを覆すように、真面目な顔で発言し続ける勝己は、新橋に向かって質問を投げかける。
「ところで、孝太郎君。何で窓から侵入するか判る?」
突然振られ、何と答えて良いか判らなかったが、訥訥たる口調で思った事を口にした。
「え……夜中の校舎は……。と、扉関係が全て閉じられているからかな」
「そうだね。あからさまに扉を開けたままにして、そこから侵入したら、夜間巡回の宿直教員や生徒会に不審がられるし、もしその扉を閉められちゃったら、校舎から出るのが困難になっちゃうからね。でも、窓だったら鍵を開けたまま窓だけ閉めておけば、あたかも鍵が閉めてあるかような錯覚を起こさせる。ましてや、校舎には沢山の窓があるし、夜だからね。でも注意しなきゃならないのは、開ける窓はあくまで侵入ルート用と退却ルート用にそれぞれ一つだけって事かなぁ……危険性はなるべく回避しなきゃならないからね。ま、例外を除くけど」
まさに推理小説のような展開と勝己の熟考には、正直呆気にとられた。
「でも……窓からの侵入の難点として、窓の桟に足をかけて上る際に、桟に靴の砂が残ってしまう事かなぁ……」
「どう言う事ですか?」
今度は新橋から勝己に問いかけた。
「だってさぁ、窓から校舎に入る……何て行動は普通はしないじゃない?靴の砂が残っていれば、外部からの侵入の痕跡として残ってしまうもの。それに、侵入した窓の真下の地面には、必然的に靴の足跡が残っちゃうしね。もし、その靴型を取られてそれについて色々と追求されたら厄介だしね」
「そ、それは盲点でしたね……」
「ま、最近は雨が降ってなかったし、何とかなると思うけど♪」
つまり、雨が降ってぬかるんでいる地面には足跡が残りやすい……と言う事か?
「ちょっと待って下さい。連絡通路の扉には、夜間は鍵がかかっているはずですが……」
「うみゅ、それがネックなんだよね。連絡通路全般の鍵は、宿直室と職員室の二箇所にあるから、侵入以前に鍵の確保を行わなくちゃならないし……」
そのやり取りに今度は千葉が加わる。
「うん。でもさぁ、それ以前に、校舎へ近づくには、必然的に校門を通らなきゃならないと思うけど。その辺の対策はどうするの?」
「そうだね。今回は前回みたく警備がなくて、夜でも校舎に入り放題って事はないと思うからね。でも、その辺はお任せあれ!」
自信たっぷりに勝己は話し続ける。
「どういう事ですか?勝己さん」
今まで会話に参加していなかった宮元が、黒い手帳を手に持ちながら聞いてきた。
「実はねぇ……部室棟裏手の金網に人が通れるくらいのほころびを見つけたんだ。この間、野良猫を追いかけてたら、偶然」
「へぇ。それは凄い発見ね」
千葉は目を輝かせる。
「時雨ちゃん。部室棟の裏手の金網なら、ルートは後者の方が良いんじゃないかな?そっちの方が効率良さそうだしね。どう、皆?」
「そうだな。侵入時のリスクは出来るだけ避けたいものだからな。俺は異議はない」
「僕もそれが良いと思うね」
「私もそう思います」
「よーし!じゃあ、侵入ルートはそれで決定!一般教室棟一階の窓は、部室棟から一番近い端の三年七組の外の廊下の窓を開けとくね。で、次は退却ルートね」
三年七組か……狩穂高校は一年から三年まで、全て七組編成になっている。そして、建物は三階建て。三年は一階、一年は三階……と、年を重ねるにつれ、下の階になるのだ。
「やっぱり、侵入ルートと同じ道を退却ルートとして利用するのは危険だと思うんだよね。それに、あたし達が侵入した事が生徒会連中に発覚すれば、捕まえるために一人でも応援が欲しいと思う。校門の護衛をしている警備員も狩り出されると思うの。結果として、校門の警備が手薄になるから、校門からの退却が妥当じゃないかな?と思うんだけど」
「金網からの退却でも良いのではないか?」
「それもそうだけど……もし、多人数に追いかけられているような状態になった場合。人一人がやっと通れるほどの金網を通り抜けるには、それなりの時間が掛かるから、危険性があるんじゃないかな?」
「ふむ、それもそうだな。校門なら、全員一緒に通れるものな。じゃあ、肝心の校門まで行くための窓は何処を開ける?」
「そうだよね、それが問題だよね。校門に一番近い位置……さっきの七組とは正反対に位置する一組の廊下の窓から退却したとして、校門までは広いグラウンドを通らなきゃいけない。危険性が最も高いと予想するね。だから、学校の塀づたいに歩いて、木や草をカモフラージュとして利用しつつ、校門まで辿り着くしかないかな……」
新橋は、今の会話の中に一つ疑問を持ったので、問うてみた。
「あの……塀づたいに進むのであれば、塀をよじ登った方が効率的じゃないですか?」
「孝太郎君、学校の塀は約二メートルあるんだよ。スポーツ万能な貴一君や亜佐美ちゃんならなんとかなるかもしれないけど、こっちには運動オンチな誠司君や蓮華ちゃんが居るんだから」
名前を呼ばれた宮元は顔を赤らめながら、南町田ははにかみながらこう言った。
「はい、運動音痴です」
「こればっかりは、ね」
「ま、誠司君はビジネスホテルの屋上での待機だから良いとして、蓮華ちゃんは荷物もあることだし」
「な、なるほど……(でも、ビジネスホテルの屋上って何の事だろう?)」
「仲間の安全を確認しつつ、退却も皆で助け合わないとな。単独行動は原則として禁止だ」
新橋は数多くの疑問を抱えていたが、今は口に出すのを止めておいた。
「じゃあ、退却ルートは三年一組の廊下の窓から、塀づたいに校門。と言う感じで良いかな?」
「そうね。私は別に異論はないわ」
「俺もだ」
「よーし、それで決定だね!じゃあ、後は誠司君に任せるよ」
バトンタッチした南町田は、勝己に向かってお疲れ様と言い、それから話し始めた。
「新橋君。覚えているかな?僕達のそれぞれの役割」
「……」
そんな事あったかな?大体、この数日間で色々な事が起こりすぎて、頭が混乱しているというのに。
「うん。覚えてなくて当然だよね。僕が狙撃係で、貴一君が格闘係……とか言うやつなんだけど」
「あ、ああ!思い出しました。どうも<新聞部>とは結びつかない事なんで、すっかりと忘れてしまっていましたよ」
「じゃあ、今度は忘れないようにね。……で、さっき時雨ちゃんが言ったように、僕は運動音痴なんだ。足も速くない。だから、僕は遠くから離れて、皆の援護をする狙撃係を担当しているんだ」
南町田は立ち上がり、そう言いながら、コピー機の前にまでやって来た。そして、そのままコピー機を持ち上げてしまった!
カチャ
なんと、これはコピー機に見せかけた単なるプラスチックの箱だったのだ。
そして、中には……
「これは、MSG90と言う狙撃銃。重量は約六千四百グラム。射程距離は約一千メートル……」
南町田は、いつもとは違った冷ややかな笑みを浮かべ、その重鎮物からガチャリと大きな金属音(に似た音)をたてた。
「僕は、狩穂高校から離れたビジネスホテルの屋上で待機して、皆の援護をする事にするよ。今の時刻は……午後五時か。どうする千葉さん?行動時間は」
千葉は頭の後ろに手を組んで体を倒し、椅子を前後にゆらゆらさせている。同時に、ポニーテイルも揺れている。
「(ビジネスホテルの屋上って、その事だったのか!)」
「そうねー。午後十時くらいが妥当じゃないかな」
「敵は何人くらいですか?」
「んー。生徒会連中が何人連れて来るか判んないからねー。どうも予測は立てにくいけど。前回よりも多い事は間違いないわね」
「判りました。じゃあ、僕は先に行って場所を確保しておきます。宮本さん、援護の通信宜しく。藤枝君、時雨ちゃん、気をつけて」
「はい」
「任せろ」
「はいよー♪」
そう言って、南町田は部室を出て行こうとしたが、その際、新橋の肩を軽く叩いて、千葉さんのサポート宜しく、とだけ言って出て行った。
サポート?千葉さんの?それはどういう事だ。
「待って、南町田!」
部室の扉を閉めかけた南町田に、千葉は立ち上がって慌てて声をかける。その際、膝頭をテーブルに思い切りぶつけた。
「あ、あたた……!」
「大丈夫ですか、千葉さん」
さっきから何度も静粛を保つように言われているのだが、この中で一番騒がしいのは、どうやら千葉のようであった。
「……孝太郎君にイメージカラーの話をしていないんじゃない?ほら……リポートの三……枚目……」
千葉は痛みで目じりに涙を溜めていたが、震える手でリポート用紙を掲げた。
「ああ、そうでしたね」
「あんた、時々抜けてるんだから……私達で話しておくから、先に行って良いわよ」
「すみません……じゃあ、宜しくお願いします」
3
椅子に座り、ぶつけた方の膝を立て、傷の具合を確認している千葉の姿は、脚線が露になっていて、健全な高校生には刺激的だ。
しかし、藤枝、宮元の方を見ても、平然としている。こういう事は日常有り得る事なのであろうか?
自分でも、少し顔の体温が上昇をしているのを感じた。こんな表情を見られたら、きっと<裏新聞部>の人達は軽蔑するに違いない。
そんな危険を回避するために、自ら質問をひねり出した。
「千葉さん、イメージカラーって何です?」
「うん。今日の私達の仕事は完全なる極秘作戦なの。例えば、作戦中に誰かの名前を呼ばなくちゃいけない……そんな時に、平然と本名を言える?」
狩穂高校の生徒が約千二百人だとしても、同じ名字の人間は限られる。
「たしかに、狩高の生徒であるとばれてしまうかもしれませんね」
「作戦遂行中は限りなく、相手の名前を呼ぶことはないんだけどね……。声で誰だと判ってしまう危険性もあるし。まぁ、通信時の即認識のために、ね。判りやすく言うと、一種のコードネームだと思ってくれて良いわ」
千葉は、ちらりと宮元の顔を見た。
新橋は、ちらりと千葉の脚線を見た。
「私はデータ管理(運動音痴なので)担当。実際の作戦には参加できません。なので、通信機を使って、皆さんをサポートするのが役目なんです」
「時に孝太郎君。君の好きな色ってなぁに?」
足を元に戻し、千葉は身を乗り出しながら聞いてきた。
新橋は、脚線を凝視していた事がばれたのかと思ったが、どうやら千葉は気付いていなかったらしい。
「色、ですか?突然そんなこと言われても……」
「まぁ、それもそうよね。じゃあ、私達のイメージカラーを順に言っていくから、頭で暗記してね。一応、リポートの三枚目に記述されているけど、それは破棄しちゃうからね」
「は、はい」
「まずは、南町田はアイボリー。黄色をずっと薄くした色ね。藤枝はキャメル。時雨ちゃんはキャロット。蓮華はマゼンタ。そして私はカーマイン」
皆それぞれがイメージに合った色を選んでいるのだろう。宮元や勝己のイメージカラーの選出は何となく判る気がする。
そして千葉は……カーマインは赤だったような。そう言えば、千葉は赤色のリストバンドを付けているから、赤が好きなのだろうか?
「あと残っているもので妥当なのは……シアンとかどう?青緑ね」
青緑か……どうもピンとこない色ではあるが、青はたしかに僕の好きな色だ。
「シアンですか。良いですね、それ」
「じゃあ決まり!皆、判った?孝太郎君は作戦遂行中はシアンね。南町田には、追ってメールで伝えておくから」
「OK!じゃあ、あたしは下準備にかかるとするかな。待ち合わせ場所は……九時半にいつもの場所で」
南町田同様、今度は勝己が部屋を出て行った。
部室には、千葉、藤枝、宮元、新橋の四人が残された。
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「俺は直線的な格闘係だからな。勝己が立案したルートに蔓延る人間をなぎ倒し、率先して道を切り開く役目なんだ」
南町田、勝己が出ていった後にも、残りの四人で会議は続けられていた。
「藤枝さん、やたら筋肉質ですけど、実家は何か道場でもやってるんですか?」
「いや、特に武術は習った経験はないな。全て独学での素人だよ。それに、実家は書道教室なんだ」
藤枝は、照れながら頭をガシガシと掻いた。
「藤枝は見た目から想像も出来ない程の達筆だからね。狩高新聞の原稿にしろ、部活動掲示板の書き込みにしろ、本当に重宝してるわ」
「(えっ、じゃあ……あの流麗な字は藤枝さんだったのか!)」
「そこで、新橋には千葉と同様、作戦遂行係をやってもらいたい」
「え!そんな、突然無理ですよ!!昨日今日入った新人にいきなり!それに、話に一貫性がないじゃないですか!!」
「はっはっは!言うなー、新橋!」
「大丈夫♪孝太郎君の足を見込んでの事だから」
「あ、足って……」
普通なら、足を見込むではなく、腕を見込むだと思うのだが……?
「以前、私達が初めて会った時、新橋君のお兄さんの話をした事を覚えてらっしゃいますか?」
「兄貴の?……そう言えば、僕が名乗る前に僕の名前を知っていたようですが……」
「ええ……。新橋君の兄、純一郎さんは、狩穂高校陸上部における期待の星でした……インターハイにも出場経験がありますね」
宮元は、いつものように黒い手帳をぺらぺらとめくりながら言った。
「たしかにそうですけど……僕は兄貴と同じ能力を持っているわけじゃないですよ……」
新橋の声のトーンは、徐々に消沈しつつあった。
幼少の頃は、人と話すとき、両親と話すときは、いつも成績優秀でスポーツ万能にも恵まれた兄貴と比べられた。
お兄ちゃんは凄いね、偉いね、と。それに引き換え、僕には何のとり得もない。
それが原因で、よく近所の子からも虐められていた。
兄弟を持つ者にしか判らない差別と苦痛。
はっきり言って、苦渋の毎日であった、が……
「孝太郎君。たしかにお兄さんはこの学校では英雄的存在であったわ。でも、孝太郎君には孝太郎君にしか出来ない事もあるでしょう?(気休め)」
「うむ。高校生になったのだから、それくらいは分別できないとな。丁度良い機会だ、皆を見返してやれ。俺にも出来るんだ、とな(嘘)」
「そうですね。インターハイ出場の足を持つ兄の弟ともあれば、その血は少なからず受け継いでいるかもしれません(冗談)」
「見返して……ですか」
藤枝の一言で、新橋の闘争心に火が付いた。
「やります!僕、やりますよ!!」
「そう言うと思ったわ、孝太郎君。……まさに、私の予想通りに」
「よし、それでこそ本当の男だ。事の詳細は千葉から詳しく聞かせてもらえ。じゃあ、俺は仮眠を取ってから行くとするかな。集合場所はいつもの場所だったな?」
「ええ、そうですね。九時半です」
「うむ。ではまた後で」
各々が出陣してゆく中で、新橋は興奮と少なからずの緊張を覚えていた。
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「それでは、私もそろそろ行きますね。ラップトップパソコンに、通信機、小型マイク……色々持ってゆく物がありますから」
「今回もぱっちりサポート頼むわよ」
千葉は宮元の肩を景気良く叩いた。
新橋は、あれは痛そうだと思ったが、当の宮元は表情一つ変えない。打たれ強いのだろうか?
「ええ、任せてください」
宮元も出て行った今、部室内に残った者は千葉と新橋のみだ。先ほどと同じようなシチュエーションになった。
待てよ……さっき同様、これで、またあの麻生が出てきてしまっては、敵わない。
「僕達もそろそろ行った方が良いんじゃないですか?」
「そうねー。なんだかんだ言って、さっきから騒いじゃっているものね。もしかしたら、また邪魔が入るかも。じゃあ、最後に……っと」
そう言って、千葉はコピー機の中に手を伸ばし、何が詰まっているのか判らない程に膨れた一つの袋を取り出した。
「それは……」
その中から黒い布みたいなものを取り出した。
「夜の行動には持って来いの黒衣装!これを着ていれば、夜の闇に溶け込むことが出来るわ」
Tシャツ、パンツ、キャップ……全てが黒尽くめの衣装だ。街中でこんな物を着ていたら、きっと変質者扱いをされる。
新橋は、正直あまり着たいとは思わなかったが、しぶしぶとそれを受け取る。
「後は……これね」
千葉は、次いで小さな黒いトライアングルバックを渡した。
「中には、作戦遂行中に必ず役に立つ物が入っているから、それも持って行って」
「は、はい」
「まぁ、そんなところかな。集合時刻は九時半……場所はいつものところ……って、孝太郎君は知らないわよね?」
「そうでしたね」
千葉は部室の天井を見上げ、顎に人差し指を置き、考えるような仕草を見せる。
「じゃあ、<スタンド・リバー・第二公園>は知ってる?」
「ああ、理髪店<ホネスティ>の向かいの公園ですか?」
「ええ、そう。九時にそこで私と待ち合わせしましょ。判っていると思うけど、遅刻は厳禁ね」
そう言って、千葉はポニーテイルを翻し足早に部室の外へと出て行った。
「ちょっと!千葉さん、鍵、鍵!!」
「孝太郎君に任せるわ、じゃね」
「は、速……」
すでに、千葉の姿は視界から消えつつあった。
一人になった新橋は、渡された一式を手に、慎重に帰路へと着いたのだった。
これからどんな事が起こるのだろう……新橋の心はその事で一杯であった。