1

ラジオのDJが、リスナーからリクエストされた曲を流している。
どこかで聴いた様な洋楽であったが、曲は新橋の耳を素通りして行く。
テスト用紙を盗む、なんて馬鹿げた事をすると言う発言を目の当たりにして気付かなかったが、良く考えてみるとテスト勉強期間だと言うのは新橋も同様であった。
自室の机に向かって早一時間、現在の時刻は午後十一時七分。

「(まったく集中できない)」
机の上に開いた参考書とノートは、未だ手付かずの状態だ。
気持ちを切り替えようと、新橋は通学用の鞄に手を伸ばし、放課後の会議に使われたリポート用紙を改めて取り出した。
これを作成したのが千葉かどうかは判らないが、教師についての個人情報は、実に良く調べてある。
特に、化学教師の性格の悪さの評判は、よく兄貴から聞かされていた。
新橋は思い出したように、引き出しの奥から古びたエアメールの束を取り出した。何通かは未だ開けられてはいない。
だが、それらを一見すると再び引き出しの奥へとねじ込み、溜息と共に真っ白なノートと、それに反して文字がびっしりの参考書と対面した。

2

ともあれ、翌日。
相変わらずの晴天続き。これで三日間連続の快晴だ。
こんな日は、是非ともピクニックにでも行って、ゆっくりと初夏の陽気と草木が踊る風を楽しみたい。

……が、そんな気持ちとは裏腹に、<裏新聞部>の部室の前に立っている新橋の姿がそこにはあった。
「何でここにいるんだろ……」
テスト勉強期間中の部室棟は静まり返り、放課後でありながら、まるで授業中のような閑静な雰囲気を醸し出している。
新橋は、ドアのノブを回そうとしたが……とある疑問符が浮かんだ。

部活動が禁止されている今、鍵は開いていないのではないか。

辺りを見回してみても、<裏新聞部>の面子がやって来る気配もなく、腕時計を見ても、今はまだ午後三時四十分だ。

ここに居ても無聊に苦しむだけだ。改めて出直そうと思ったのだが、興味本意で部室のドアをノックしてみる。
勿論、返事などは全く予想していなかったのだが、驚くべき事に、くぐもり声ではあるが小さな返事があった。

「……はーい」

「あ、居たんですか!僕です。新橋です」
「孝太郎君?他に誰か……居る?」
ドアのすぐ側まで来ているのだろう。その声の主は、先程よりも聞き取りやすい声で聞いてきた。
「い、いえ。誰も居ませんけど……」

そう答えると、キリキリと錆付いた開錠の音に次いで、ドアが開け放たれた。
部室の中に居たのは、千葉ただ一人。

「やぁ、こんにちは♪さ、入って入って」
千葉は急かすように、新橋の背中を押して、強引に招き入れた。
部室の中にこもる微かなラベンダーの香りが新橋の鼻腔を擽る。しかし、部室内には芳香剤の類は見当たらない。
「ちょ、ちょっと。何するんですか」
「孝太郎君。途中、誰かに見られたりしなかった?」
千葉は新橋の方を向きながら、後ろ手で部室のドアを施錠した。
「え……だ、大丈夫だと思いますけど……」
「今日からの活動は、全くの違法活動。バレたらちょっと面倒な事になるから、なるべく見つからないようにね♪」
「は、はぁ……」

そう言えば、部室で千葉と二人きりで部室に居るのは初めてであろう。元々狭い空間ではあるが、昨日よりもずっと広く感じる。
「千葉さん、よく部室の鍵を借りられましたね」
新橋は中央の机の上に置かれた鍵を指差して言う。
「鍵?ああ、それはスペアキーよ。マスターキーはテスト勉強期間中は貸し出して貰えないから、予め複製を作っておいたの」
「そ、そうなんですか……」
相変わらずの手回しの良さ、と言うか何と言うか。

鍵の隣を見ると、狩高新聞の原稿が出来上がっていた。
「あ、これ……」
「狩高新聞ね。後はそれを印刷室で印刷して、当面の<表>の活動は終わり」
「何で印刷室まで?だって、ここにはコピー機があるじゃないですか」
新橋は、部室右側にどっかりと鎮座する大きなコピー機を触りながら問うた。
「それは……実はコピー機じゃないんだ」
「え?それはどう言う……」

「!」

真意を聞こうとした新橋の口を、突然千葉の右手が塞ぐ。
「しっ!静かに」
「(は、はい)」
状況が上手く掴めないが、明らかに千葉の表情がいつもとは違っていた。

やがて、外の廊下からコツコツと言うローファーの音が近づいてくる。
そのまま通り過ぎるかと思った足音は、<裏新聞部>部室の前で止まった。新橋が横目で千葉を見ると、その表情には緊張が横走りしている。

しばらくすると、施錠済みの部室の鍵が開けられ、一人の女子生徒が闖入してきた。

やっと解放された新橋は、少し咳き込みながら、現れた女子生徒を見ると、全く面識のない女子生徒だった。いや、待てよ……。
セミロングの髪……そして外見は少し気の弱そうなイメージだが、芯は強そう……それでいて、怜悧そうな顔つき……
「ノックもなしに入るとは、相変わらず生徒会のマナーはなってないわね」
生徒会?そうか、たしか入学式のときに……
「貴方達の不穏な動きは、当に生徒会が掴んでいるの。無駄なことは止めなさい」
「あら、勝手な憶測で物事を決めつけないで欲しいわね、麻生。今だって狩高新聞の最終調整をしていたというのに……」
麻生?そうか、あの麻生鳴海(あそうなるみ)か!生徒会副会長の。
「はん、そんなのどうだか。今だって、男子生徒を連れ込んで何をしていたのか……ん?貴方、見ない顔ね。名前は?」

麻生は目が悪いのか、やたらと顔を近づけて話しかけてくる。
「は、はい……新橋、孝太郎です」
「ふ〜ん……」
興味があるのかないのか、それだけ言うと、麻生は千葉の方を向き、こう言う。
「亜佐美さん。ここからは私の独り言だけど。以前の期末考査でニ学年があり得ない好成績を残したでしょう?実は、何処かの組織がテスト用紙を盗んで、それらが流出したことが原因みたいなの。そうとなれば、今回もきっと盗まれるに違いない。そこで、生徒会はある組織と共同して、テスト勉強期間中に渡り警備網を敷くことになったから」
「ふ〜ん。それはご苦労様」
つまらなそうに、目を麻生に合わせようとしない千葉。
「そうそう。前回の期末考査一週間前、たまたま帰宅が遅くなった生徒会の役員が<暗闇を走るポニーテイル>を目撃したって言ってるんだけどね……」
麻生は腕を組み、微笑を浮かべながら千葉に言った。
「あのねぇ……ポニーテイルなんてこの学校には沢山居るでしょうが……」
その言葉を聞いて、麻生はシニカルな表情を見せた。
「学校?私はこの事件を学校部外者の犯行として見ていたわ。何も学校内の生徒の犯行だとは言っていなかったけど?」
千葉は、この時「しまった」と言う表情を見せる。
新橋は、こんな千葉の表情を見るのは初めてであった。
「それにね。実際、ここ狩穂高校に通う生徒の中にポニーテイルの生徒と言う条件を当てはめると、何人もいないのよね」
千葉は下唇を噛む。
「くっ……」

そんな千葉の様子を一瞥しながら、麻生は続ける。
「私は、論よりも証拠を掴みたいの。必ずや尻尾を掴んで、この部活の廃止、そして貴方を退学にしてやるんだから」
「や、やってみなさいよっ」
千葉の頬を一滴の汗が伝う。
「ふふ……それに、そこの貴方」
新橋の事だ。
「悪い事は言わない。この女と一緒に居ると、ろくな事がないわよ。折角の高校生活を台無しにしたくないでしょ?辛くなったら、生徒会にいらっしゃい。歓迎するわ」
「麻生!何言ってるのよ。折角の新人に……」
「ま、無理にとは言わないけどね」
含み笑いを浮かべた麻生は、そのままの表情で<裏新聞部>の部室を出て行った。

その数秒後、当の千葉は……
「く、くやしーーーーーーー!!」
突然、駄々をこねる子供のような仕草で地団駄を踏み始めた。
「ちょ……千葉さん、落ち着いてください……」
「全く!あの女の邪魔で前回もぉーーー!!」
少量の涙を浮かべた千葉は、新橋を指差しながら言った。
「孝太郎君!こうなったら麻生をぎゃふんと言わせるわよ!さぁ、作戦会議ーーーー!!」
「千葉さん……な、泣いてるんですか?」
そんな言葉に、千葉は顔を赤らめながら……
「こ、これは汗よ!」
千葉は、右手の赤いリストバンドで額を拭う仕草を見せた。
どうやら、千葉は麻生の事が苦手らしい。

4

「どうだ?」
「ええと……まだやってますね」
宮元は、黒い手帳の中から携帯用の片目双眼鏡を取り出して、部室の窓を見ながら言った。
「ふぅ。全くあの二人には困ったもんだね……」
藤枝、宮元、南町田の三人は、部室棟から少し離れた木陰のベンチに腰を下ろしていた。

「お待たせー」
遅れて、勝己がテトラパックのジュースを四本抱えてやって来た。そしてそれらを三人に渡す。
「ほい」
「すまないな」
「ありがとう、時雨ちゃん」
「あ……これは縄文乳業のフルーツ・オ・レじゃないですか!私はマグ・ミルクのフルーツ・オ・レが好きなのに……」
口を突き出して、文句を言う宮元。
「文句を言うな宮元。勝己がまともに買い物をして来たと言うだけでもありがたい事ではないか」
「それはそうですけど……」
「何それー。それじゃあ、いつもあたしがマトモに買い物も出来ない娘みたいじゃない?」
「……だって事実だものな」
「ぷんぷん!」
「声に出して言ってるし……」

ともあれ、それぞれジュースを一口飲み、一息を付く。
「それにしても、亜佐美ちゃんと鳴海ちゃん。何であんなに仲が悪いんだろ」
勝己の質問に南町田が答える。
「仲が良いの間違いじゃないかな?何かと言うと、あの二人……良く競っているじゃない?テストの点とか、体育祭の順位とか……」
藤枝も会話に加わる。
「それだけじゃないぞ。弁当の出来栄えを勝負していた時もあったな」
「弁当……それって味をでしょう?」
「いや、味ではなくて……色?うーむ……オカズの配置やら白米の量とかだったかな?芸術センスがどうこう……と」
「千葉さんは料理が得意ではないですものね」
苦笑しながら宮本は言う。

「もうすぐ四時か……新橋のやつはどうした?」
「新橋君は、どうやらあの二人の巻き添えにあっているみたいですね……」
片目双眼鏡を見ながら、宮元が答えた。
「そうか……災難だな」
やれやれと肩をすくめる藤枝。
「まぁ、あと十分くらいは待ったほうが良さそうですね」
「そうだな」

5

麻生は、<裏新聞部>の部室を出て行ったと見せかけて、実はドアに背を預けていた。
案の定、中から千葉の罵声が聞こえてくる。

「孝太郎君!こうなったら麻生をぎゃふんと言わせるわよ!さぁ、作戦会議ーーーー!!」

「(ふふ……いつもはクールに決めているけれど、図星を指されると狼狽する癖は昔から変わってないわね……亜佐美)」
ゆっくりとした足取りで、麻生はマスターキーを片手に部室棟を後にした。

6

「遅ーーーーい!!時間はとっくに過ぎているじゃない。一体何をしていたの?」
遅れてやって来た、残りの<裏新聞部>の面子に向かって、さっそくの叱声が飛んでくる。
明らかに、千葉の表情は怒っている……と言うか、おそらくそれは遅刻のせいだけではないだろう。
「うむ。勝己の担当となっている掃除箇所の掃除が終わらなくてな……我々で手伝っていたのだ」
「そ、そうなんだよ。廊下にへばり付いたガムを取るのに苦戦して……え、えと」
どんな時でも冷静沈着な藤枝。千葉の怒りを難なく沈める事が出来る。逆に、勝己はダメだ。上手い嘘を付く事は出来ない。
疑われる前に、南町田は勝己の口を塞いだ。
「それなら、私も呼べば良かったじゃない」
「電話を掛けたんですが、どうやら圏外だったみたいですね」

どれもこれも、藤枝や宮元の出任せによるものだが、千葉には判っていないようだった。
「そうだっけ?ああ、そう言えば電波が一本しか立ってないわ。でも、それでも電話は通じると思うけど……」
「千葉さん、それよりも会議が先でしょう。それと……少し声のトーンを落とした方が。誰かに闖入されたら、都合が悪くなりますよ」
南町田の一言で、遅刻した事(本当はわざと遅刻したのだが)についての怒りは完全に沈下したようだ。