・善なるは神のみである(信仰)。 ・ナザレのイエスはキリスト(救い主)である(同上)。 ・ヒトラーは悪人である(道徳的命題)。 事実的命題 / 命題の真偽は事実によって決定される(現象論的)。
事実的命題の例 /
・ヒトラーの行いはナザレのイエスの教えに即していない。 ・ソクラテスは人間だ。 ・千年前の今日、東京は晴れだった。 ・これら命題の範疇は、便宜的な動機によって立てられた。 経験的命題 / 命題の真偽は経験によって決定される(暫定的・反証可能性)。
経験的命題の例 /
・リンゴは9.8m/s*sの加速度で木から落下する。 ・ある量とその2倍の量を足すと、ある量の3倍になる(1+2=3・実数式)。 構成的命題 / 構成的命題は、検証すべき事実を持たない(定義的)。 ※アリストテレスの三段論法は経験的命題と事実的命題で構成される。
小前提(事実的命題)/ ソクラテスは人間である。 結論(演択的命題) / ソクラテスは死ぬ。 ◆経験と体験 日本語では「経験」と「体験」という言葉の意味は明らかに違うが、英語に訳すと両方とも"experience"になってしまう。我々がごく普通に「体験」として使っている言葉は、欧米社会ではジェームズの「純粋経験」やベルグソンの「純粋持続」のような特殊な哲学的概念になってしまう。「体験的命題」は「経験的命題」に比較して、「事実的命題」に近いと言える。並びとしては、「主観 ⇔ 客観」の方向で、
となる。 ◆ヘルメスの公準 先験的命題と構成的命題は、共に検証すべき事実を持たない。これは「反対物の一致」、乃至、「主客の一致」である。 ◆ ジェイコブズ・ラダー(もしくは「ホーリズム」)
経験的命題は事実的命題を、 事実的命題は先験的命題を、 各々、前提とする。 ◆ 境界命題
「我々は観測問題から逃れられない」。これは先験的命題か、それとも事実命題か? ◆ 場の論理
◆ 場の論理・続
場は周縁を持たない。乃至、周縁を意識しないことによってのみ、場は場であり得る。境界付けられた全体として把握された場は、その時点で対象化され、場ではなくなる。私は自分の現在いる場について「ここは〜である」と語ることは出来る。一見、私は自分のいる場について、その場にいながら語っているようではある。しかし、「その場」について語ることは、「その場」に対して距離を置くことである。我々は、雰囲気("atmosphere")に「溶け込む」ことによって、その場に登場し、その場について語ることによって、雰囲気を壊す。また、我々は雰囲気に「呑まれる」ことによって主体性を剥奪される(疎外)。人は大抵は、仮面の下に主体性を確保しながら雰囲気に「溶け込む」、大抵は。 ◆ 帰納(induction=誘導) データ(事実的命題)が仮に理論負荷性から逃れられないとしても、データはデータであって、法則(経験的命題)ではない。
体験は短期記憶として自己意識の側に確保される。睡眠によってそれは、長期記憶(経験則)に均質化されて世界観の側に埋め込まれる(この洞察は非常に大雑把なものではあるが、人間の精神活動についてのある側面を確かに捕まえてもいると思う)。 ◆ 検証
◆ 進化心理学(ジョン・ホーガン『続・科学の終焉』より)
◆ 伝道の書 ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。 伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。わたしは心をつくし、知恵を用いて、天が下に行われるすべてのことを尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない。 わたしは心の中に語って言った、「わたしは、わたしより先にエルサレムを治めたすべての者にまさって、多くの知恵を得た。わたしの心は知恵と知識を多く得た」。 わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。 それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。 |