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論理命題に関する個人的メモ



    ◆ 命題分析

      先験的命題 / 先験的命題は検証すべき事実を持たない(超越的)。

        先験的命題の例 /
          ・カントの物自体の具体的内容を知ることは不可能である(形而上学的命題)。
          ・善なるは神のみである(信仰)。
          ・ナザレのイエスはキリスト(救い主)である(同上)。
          ・ヒトラーは悪人である(道徳的命題)。

      事実的命題 / 命題の真偽は事実によって決定される(現象論的)。

        事実的命題は具体的、乃至、一回的事実を取り扱う。命題に対応した事実が、検証不可能な場合もある。

        事実的命題の例 /
          ・神様は白いヒゲを生やしている。
          ・ヒトラーの行いはナザレのイエスの教えに即していない。
          ・ソクラテスは人間だ。
          ・千年前の今日、東京は晴れだった。
          ・これら命題の範疇は、便宜的な動機によって立てられた。

      経験的命題 / 命題の真偽は経験によって決定される(暫定的・反証可能性)。

        経験的命題は通俗的な世間知でもあり得るし、厳格な方法論に則った科学的知識でもあり得る。経験的命題は直接、検証すべき事実を持たない(帰納的検証)。

        経験的命題の例 /
          ・日本人は胴長短足でメガネを掛けている。)」
          ・リンゴは9.8m/s*sの加速度で木から落下する。
          ・ある量とその2倍の量を足すと、ある量の3倍になる(1+2=3・実数式)。

      構成的命題 / 構成的命題は、検証すべき事実を持たない(定義的)。

        構成的命題の例 /
          ・1メートルは100センチである。
          ・命題は先験的、事実的、経験的、構成的の四種類の命題に区別出来る。
          ・私は嘘つきである(自己言及的命題)。
          ・この命題は真である(同上)。
          ・この命題は偽である(同上)。
          ・記号cで表される量は、記号aで表される量と記号bで表される量の和である( a + b = c ・代数式)。


      ※アリストテレスの三段論法は経験的命題と事実的命題で構成される。


          大前提(経験的命題)/ 人間は死ぬ。
          小前提(事実的命題)/ ソクラテスは人間である。
          結論(演択的命題) / ソクラテスは死ぬ。


    ◆経験と体験

     日本語では「経験」と「体験」という言葉の意味は明らかに違うが、英語に訳すと両方とも"experience"になってしまう。我々がごく普通に「体験」として使っている言葉は、欧米社会ではジェームズの「純粋経験」やベルグソンの「純粋持続」のような特殊な哲学的概念になってしまう。「体験的命題」は「経験的命題」に比較して、「事実的命題」に近いと言える。並びとしては、「主観 ⇔ 客観」の方向で、

      先験的命題 ⇔ 事実的命題 ⇔ 経験的命題 ⇔ 構成的命題


    となる。

    ◆ヘルメスの公準

     先験的命題と構成的命題は、共に検証すべき事実を持たない。これは「反対物の一致」、乃至、「主客の一致」である。

      論考5.63
      私とは、私の世界のことである。
      論考5.64
      ここからして、独我論は、厳格におしつめてみると、純粋なリアリズムに合致することが分かる。後略

      他、5.631 〜 5.634等

      論考が独我論をテーマとして取り上げるのは、それが「単独者(世界にたった一人しかいない自分)の思想」、乃至、実存的だからである。

    ◆ ジェイコブズ・ラダー(もしくは「ホーリズム」)

      構成的命題は経験的命題を、
      経験的命題は事実的命題を、
      事実的命題は先験的命題を、

      各々、前提とする。


    ◆ 境界命題

      「神は世界内存在ではない」は、先験的命題か、それとも事実命題か?
      「我々は観測問題から逃れられない」。これは先験的命題か、それとも事実命題か?

    ◆ 場の論理

       いかなる事実も、何らかの「場」において成立する。「場」は語り得るものであっても対象ではない。「私は今、この国にいる」という命題において、「この国」は対象化されてはいない。しかし、「この国は〜である」という命題形式を提示した瞬間、「場」は対象化され、「場」としての地位を失う。  ともかくも、対象化可能なものは明らかに対象化されうる。対象化不可能なものは認識することも不可能である。つまり、事実は形而上学的前提なしに成立不可能なのである。「世界はどのようにあるか、ということが神秘的なのではない。世界がある、ということが神秘的なのである」(論考6.44)。

    ◆ 場の論理・続

      場は事実の前提である。

       場は周縁を持たない。乃至、周縁を意識しないことによってのみ、場は場であり得る。境界付けられた全体として把握された場は、その時点で対象化され、場ではなくなる。私は自分の現在いる場について「ここは〜である」と語ることは出来る。一見、私は自分のいる場について、その場にいながら語っているようではある。しかし、「その場」について語ることは、「その場」に対して距離を置くことである。我々は、雰囲気("atmosphere")に「溶け込む」ことによって、その場に登場し、その場について語ることによって、雰囲気を壊す。また、我々は雰囲気に「呑まれる」ことによって主体性を剥奪される(疎外)。人は大抵は、仮面の下に主体性を確保しながら雰囲気に「溶け込む」、大抵は。


    ◆ 帰納(induction=誘導)

     データ(事実的命題)が仮に理論負荷性から逃れられないとしても、データはデータであって、法則(経験的命題)ではない。

      同様に、体験(事実的命題)が仮に個人の主観的偏見から逃れられないとしても、体験は体験であって、経験則(経験的命題)ではない。

      体験は短期記憶として自己意識の側に確保される。睡眠によってそれは、長期記憶(経験則)に均質化されて世界観の側に埋め込まれる(この洞察は非常に大雑把なものではあるが、人間の精神活動についてのある側面を確かに捕まえてもいると思う)。

    ◆ 検証

       一般に検証が問題になるのは、事実的命題についてである。しかしながら、データ化された事実が一般則を支持するか否か、という検証もある。この両者を混同してはいけない。いかなる事実命題も、先験的命題の前提抜きに成立することは不可能である、ということは、いかなる事実命題も、その真偽については、最終的には「信じるか、否か」という決着の付け方に依らざるを得ないことを意味してもいる。これは、事実命題における直感的検証についての問題であって、経験科学における手続き上の厳格さとは全く関係のない話である。

    ◆ 解釈不可能なギャップ(ダニエル・C・デネット ?)

       目の前にあって、断固として自己主張する現実は、デカルト的懐疑を拒否する。疑うことが有意義であるのは、それが疑いうるものだからである。我々が疑い得るのは、目の前の現実の持つ意義(内在)であって、現実そのものではない。

    ◆ 進化心理学(ジョン・ホーガン『続・科学の終焉』より)

       われわれの心は、先祖たちにとって、生死に関する問題を解決するために、自然淘汰によって進化したのであって、正確に言葉を交わすとか、問うことができるすべての質問に答えるために進化したのではない。われわれは、短期記憶に一万語も保持できない。われわれは紫外線を見ることができない。われわれは四次元の物体を心の中で回転してみることができない。そして多分、われわれは、自由意志や直覚のような謎を解決できない(スティーブン・ピンカー)。

    ◆ 伝道の書


      ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。

       伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。
       伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。わたしは心をつくし、知恵を用いて、天が下に行われるすべてのことを尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない。 わたしは心の中に語って言った、「わたしは、わたしより先にエルサレムを治めたすべての者にまさって、多くの知恵を得た。わたしの心は知恵と知識を多く得た」。 わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。 それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。