カイエ・番外編

(面倒なので、ノートの丸写しw)

ここからの続き



モルモンは毒麦

「言(ロゴス)は肉体となり、私たちの内に宿った(フランシスコ会訳では「天幕を張った」)」

●ローマ書をどう読むかで、パウロ神学への態度は変化する。バルト⇔ヨハネ型の読みを中心に考察すべきこと。

●知恵の実による死の警告は、自然の理(ロゴス)としてそれ自体としては善でも悪でもない死が、自然からの疎外状態における不安や忌むべきものに変化し、苦悩の対象となるという解釈は可能。それを裸のサルに過ぎなかったアダムとエバに分かりやすく言っただけ、と。

●パウロ、ロマ書5.12-以後の創世記への誤解は訂正されないまま続いている。パウロにとって死は無条件にい罪の結果である。→グノーシス主義の二神論に通じる、マルキオン

パウロ神学における、肉を(強く)悪と見なす傾向。イエスにおける信仰の強みにおける肉の要求への無関心から来る結果論的な寛容性とは異なる。

贖罪論はどうでも良い。どうせ安逸は求めていないのだから。

ロマ書10.10「人は心で信じて義とされ、口で告白して救われる」。
 〃 3.2-「まず第一に神の言が彼らに委ねられたことである。〜神のピスティス〜」

・・・・神の信仰告白としてのイエス・キリストという思想形式。 → 「信(ピスティス)であるイエス」

イエスを抽象化し過ぎる傾向、13.14「イエス・キリストを着なさい」等 イエス・キリストにおける人性、被造性の軽視、 / 復活後に肉を持たない(?)キリストとしか会ったことのないパウロの性質 ※ヨハネ書では和らげられている肉/霊の二項対立

※パウロの律法主義的行為義認に対する(福音的)信仰義認の態度は、それ自体としては福音書におけるイエスの言動に基づいていて正当である。その事と、パウロの肉の罪性の(おそらくは)不当な強調の問題は区別すべき。

パウロのグノーシス主義的創世記理解が贖罪論に与える影響は???

●パウロ神学を擁護するには、本質的に限界があるという事(原罪論)、割礼問題について律法主義と対決しながらも、自身、どこか律法主義的な雰囲気の残る元・パリサイ派のパウロ

パウロ的贖罪論(ローマ書の)と、福音書のイエスの言動から全体的に把握可能な贖罪論は異なっている。、という可能性。

キリストの神学では霊は肉を超越する。パウロの神学では、霊は肉に勝利する。勝利するのは霊と肉が同一地平にある二元論だから。パリサイ派−分離派???


http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=3229&KEY=1060746611より抜粋

33 名前: 名無しさん@神がかり 投稿日: 2003/09/09(火) 18:45

『神を待ち望む』より

 聖性の新しいタイプはほとばしりであり、発明であります。すべての比例を守り、すべてのものをおのおのその位置に保つことによって、これはほとんど世界と人間の運命との新しい啓示に似たものです。これはこれまで厚いほこりの層でかくされていた真実と美との大きな部分をはだかにすることです。

 俺の主張をよく理解してるヤツは大体、気付いているだろうが、「世界の美」ということに彼女がこだわる(ヨブ記などでも)のは、パウロにもその性質が強いグノーシス主義的自然憎悪の弊害を、彼女は直感的に理解していたからだな。


34 名前: 名無しさん@神がかり 投稿日: 2003/09/09(火) 18:54

 パウロ神学の影響の濃いキルケゴールの『死に至る病』の「書き損ね」の反抗の比喩は、ある意味、グノーシス主義だ。

 比喩的に言えば、それはある著作家がうっかり書きそこないをし、その書きそこないが自分を書きそこないとして意識するにいたった場合のようなものである…けれども、実をいえば、それはおそらくあやまりなのではなくて、はるかに高い意味では、全体の叙述の本質的な一部をなすものであったかもしれないのである…そこで、この書きそこないは、著者に反逆を企て、著者に対する憎しみから訂正をこば み、狂気のような反抗をしながら著者に向かってこう言うようなものである。いや、おれは消してもらいたくはない。おれはおまえを反証する証人として、おまえが平凡な作家であるということの証人として、ここに立っていたいのだ、と。