俗説ひとつ



よく晴れた、梅雨の合間。初夏の日差しが全てに暖かな日。










 ドアを軽くノックすると、少しだけ間があった。
「…どうぞ」
 ドアの向こう側から、小さく探偵の声が聞こえるのを待って部屋に入ると、声から察した通り、何やら不機嫌そうに椅子に身を沈める探偵が居た。デスクの上にはグラスが二つ。片方は空になりつつあり、一方は透明な茶色の液体がなみなみと注がれたまま汗を掻いていた。それだけで、探偵のご機嫌斜めの理由が理解できてしまう自分がちょっと可哀想で、痛い。
「悪いな、探偵。鳴神じゃなくて」
 口の端を上げて笑う俺を恨みがましく上目に睨んだ後、探偵はふいっとそっぽを向いて口を尖らせた。
「…別に、あんなヤツなんか待ってないし」
「へぇ〜、そうか」
 探偵の明らかな嘘を聞き流して、びしょ濡れになったグラスを取ってストローに口を付ける。舌を撫でるアイスティーはひどくぬるかった。
「光ちゃん、それ…」
「あ?何だよ」
 ぬるすぎて気持ちが悪い。舌を出してデスクの上にグラスを戻す俺に、探偵は何やら意地悪い笑みを浮かべた。
「…ナルカミくんと間接ちゅー」
 くすくす笑いながら、探偵は自分の唇に指を押し当てる。そんな何気ない仕草に胸が微かに高鳴って、心臓の辺りがひどく痛い。
「げろ。マジかよ。早く言えって」
 顔をしかめて探偵から視線を逸らせば、小さな笑い声が耳の奥をくすぐる。いや、くすぐられてるのは心のずっと奥の方かもしれない。身体のどこか深くで何かが疼く、不思議な感触。…ああ、俺って心底コイツに惚れているのかもしれない。柄にもなく、真面目に考えてしまう瞬間。
「…鳴神と間接するくらいなら、こっちの方が良いな」
 本心を隠してふざけて笑って、デスクの上から空になっているグラスを掠め取る。一瞬の出来事に驚く探偵を他所に、空のグラスのストローを歯に挟んだ。
「探偵と間接ちゅーってか」
 一瞬、呆気に取られて呆けた探偵は、弾かれたようにけらけら笑い出した。子供っぽい笑いに、そういえば探偵は子供なんだっけと思い直す。小さな男の子相手に片思い…ああ、俺ってば茨の道を突き進んでいるなぁ。
 心の中でため息をつきながら、咥えたストローを舌で撫ぜる。無機質なストローはぺしゃんこにつぶれて、探偵の歯型がくっきりと付いていた。
 そういや、どっかで聞いたコトがあったな。ストローの噛み癖の話。女を誘う時にでも使おうかと思っていた小ネタの一つ。
「探偵って、欲求不満?」
 思考回路の経過を無視して結果だけを言うと、その言葉に探偵はきょとんと音がしそうなほどに目を丸くした。しくじった、と思った。ムードを作って、それとなく誘うことも出来ただろうに。俺としたことが、なんて情けない失態。
 目を丸くした探偵は、ふと何か思案を巡らすと真顔になってこう言った。
「イエスって応えたら、光ちゃんが解消してくれるの?」
 目を丸くするのはこちらの番。
「酷いよね、キスすらしてないのにバイトとか行っちゃうんだもん。…ねぇ、光ちゃんはストローで間接なんかで満足?」
 艶やかな笑みは確信犯。そっちがその気なら、受けてやろうじゃないか。まさに、願ったり叶ったり。
 デスク越しに手を伸ばして、探偵の後頭部を引き寄せる。探偵は酷く小慣れた動作で俺の首に腕を回してきた。引き合うようにキスをする。唇を舐めれば、微かに紅茶の味がした。






















 軽快なノックの音が聞こえた。もしかして…。一瞬期待してみるけれども、すぐに甘い考えを打ち消した。だって、あいつが殊勝にノックなんかするはずがない。じゃあ、誰だろう?逡巡のため、返事が遅れた。
「…どうぞ」
 光ちゃんだったりして。何となく、根拠もなく思いながら開くドアを見つめていると、当たってしまった。この直感、さすが探偵をやるだけあるなぁ、ぼくって。さっぱり嬉しく感じないけれど。
 光ちゃんは部屋に入って、部屋の中を一瞥する。そして、ふとデスクの上のグラスを見ると口の端を上げて、にやりと笑った。そういえば、グラスを片付けるのを忘れていた。しまった、と思ってももはや遅い。内心、舌打ちをする。
「悪いな、探偵。鳴神じゃなくて」
 痛いところを、どうして直球で突いてくるかな。現実を突きつけられて、半分八つ当たりなのは承知の上で睨みつける。光ちゃんはそれでも、飄々とした余裕な態度だった。やたら腹が立つから、そっぽを向いてやる。
「…別に、あんなヤツなんか待ってないし」
 余裕のある言葉を吐くつもりが、ついつい言い訳がましくなる。
「へぇ〜、そうか」
 そして案の定、光ちゃんは全てを見透かしたように軽い調子で相槌を打った。絶対、ぼくの言葉信じてないし。ぼくの不機嫌には全く無関心の装いで光ちゃんはデスクに近づくと、氷の溶けきったグラスを手に取った。グラスの表面にびっしりと浮いた水滴は、つまりあいつの不在を示す何よりの証拠で、さらにぼくの不快感を煽った。
 ナルカミくんはいつもの時間にココへ来た。学校が終わって、すぐ。ぼくはその時間を見計らって、闇野くんにお茶を頼む。いつもと同じ、何一つ変わらない日常。汗だくになって走ってやってきたナルカミくんは、用意されたアイスティーを片手にに満面の笑みを浮かべてぼくにお礼を言う。ストローに口を付けて…そして、いきなり出て行った。「悪い、バイトあんの忘れてた」叫ぶように言葉を言い置いて。日常の崩壊。取り残されたのは、飲まれなかったアイスティーと呆然とするぼく。ああ、思い出すだけで腹が立つ。キスはおろか、触れてさえいない。バイトのことなんて忘れていれば良いんだ。ぼくを、恋人の存在を忘れるんじゃない。
 光ちゃんはストローを咥えて、ほんの一口だけアイスティーを飲んだ。そのとき、ふとぼくの心に嗜虐心が芽生えた。にやりと笑ってみる。いわゆる、小悪魔的に。可愛いものでしょ?
「光ちゃん、それ…」
「あ?何だよ」
 アイスティーが口に合わなかったのか、光ちゃんは顔をしかめてグラスを戻す。そんな光ちゃんに満面の笑みをプレゼント。
「…ナルカミくんと間接ちゅー」
 人差し指を唇に当てて、上目遣い。ぼくの得意のポーズ。ナルカミくんはこれでイチコロなんだけど。…ああ、こんなこと考えちゃってるぼくって、少しイタイ子?今、目の前にいるのはナルカミくんじゃないのに。
「げろ。マジかよ。早く言えって」
 ほら、光ちゃんはそう簡単に引っかかってはくれない。露骨に嫌な顔をして、ぼくから目を逸らした。ぼくとしては、この光ちゃんの嫌がる様子で多少は満足だけれでも。喜ばれでもしたら最悪。だって、ナルカミくんとの間接キスの機会すら奪ったんだから。これぐらいの悪戯、笑って許してくれなきゃね。
 悪戯の成功に、ぼくはほんの少しだけ愉快な気持ちがした。くすくすと声を忍ばせて笑っていると、光ちゃんは一瞬だけ真面目な顔を覗かせた。
「…鳴神と間接するくらいなら、こっちの方が良いな」
 真顔が一転、何を思ったのか、今度はぼくのグラスを奪った。目を見張るぼくに向かって、にんまりと品のよろしくない笑みを満面に浮かべる。そして、空のグラスに差し掛けられたストローを歯に挟んだ。
「探偵と間接ちゅーってか」
 唖然、予想外の展開。光ちゃんの行動と、あまりの彼の子供っぽさに一瞬思考回路が奪われた。我に返った瞬間、ぼくは思わず声を立てて笑ってしまっていた。
 ナルカミくんと比べるのが失礼なほど光ちゃんは普段大人びていて、けれどよくよく考えれば高校生なんてまだまだ子供なんだっけ。…ていうか、ナルカミくんは高校生に染まりすぎで、本職を忘れている。同じ神様として恥ずかしい限り。
 とにかく、ぼくは光ちゃんの意外な一面にちょっとばかりときめいた。だって、あまりに可愛くて。
 光ちゃんはしばらくぼくのストローを咥えていたと思ったら、おもむろに口を開いた。そして、何をどう考えたのかわからない一言を放つ。
「探偵って、欲求不満?」
 再び、思考回路の停止。よっきゅうふまん…言葉の意味すら捉えかねて、じっと光ちゃんを見つめていると、彼は少しだけバツの悪そうな顔をした。
 欲求不満?ぼくが?…たしかに、そうかもしれない。
「イエスって応えたら、光ちゃんが解消してくれるの?」
 真顔で応えてみたら、今度は光ちゃんが目を見張った。…おや、ちょっと脈あり?
「酷いよね、キスすらしてないのにバイトとか行っちゃうんだもん。…ねぇ、光ちゃんはストローで間接なんかで満足?」
 罠を張るように、唇に半月。もう逃がすつもりはないけれど。だってほら、光ちゃんったらぼくの唇に釘付けじゃない。
 光ちゃんの大きな手がぼくの後頭部を支えて、そのまま引き寄せてくる。光ちゃんの首に腕を回しながら、ぼくは自分の欲求について思いを巡らす。欲求不満。ぼくの満たされぬ欲求って、何?
 キスがしたかった。触れてくれるだけでも良かった。その欲求は、何だか実に子供っぽいけれども。
 光ちゃんのキスは、女の子が喜びそうなくらいに優しかった。慣れた感じでぼくの唇を舐めると、微かに煙草の味がする。…だめだなぁ。これじゃあまりに違いすぎる。何と比べて?勿論、ナルカミくんと。

 そうしてぼくは、満たされない欲望を思い知る。せめて、間接キスの間接キスだとでも自分に言い聞かせてみようか。少しは、慰めになる気もするから



キミじゃないとダメなのは、わかってるけど。





タイトルが「劇団ひとり」に似ているのは偶然です。

得意というか、天神の好きな光太郎氏片思い話。
どうしようもない感じ。
久しぶりの更新だろうと、天神の根本思想は変わりません。

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