キスをした。他愛もないキス。ただ、唇の触れ合うだけの。今までにどれだけこんなキスをしただろう。そんなの、覚えていた方が異常だ。そうゆう類の、簡単なキスをした。
特にこれといった感情はなかった。ぼくはそう思っていた。なのに目の前のコレはなんだ?馬鹿みたいに耳まで真っ赤にして、慌てだす。対処に困ってじっと見ていたら、カチリと目があった。真っ赤になりながら、照れたように無邪気な笑いを浮かべる彼。
そんなに嬉しそうに笑うな。さて、たかがキス一つごときで喜ぶ彼をどうしてくれよう。そんな彼に、目を背けなければ己が保てない自分なんて嘘だろう?
ぼくの平常心を奪う、彼の罪は重い。
キスをした。深く深く、互いを探り合うようなキス。ただひたすらに卑猥な。これといった特別なモノでもない。その後の行為も安易に想像付くような、そうゆう類の単純なキスをした。
特別な感情は伴わない。それはぼくだけではないだろう。慣れた手つきで、表情一つ変えずにぼくの身体をまさぐる彼だって同じだ。鼻歌でも歌いだしそうな気軽さで、着実にコトを進めていく。欲望に身を任せてしまうのはお互い様で、相手が何を考えていようと関係ない。少なくとも、ぼくはそうだ。
耳元で、通過儀礼のように甘い言葉を囁かれて顔をしかめる。そんなぼくの様子などどうでも良いように、目の前の男は欲望のまま行為を続けていく。喜ぶ気配も見せず、落胆する様子もない。
少しだけ、むかついた。その湧き上がる感情の真意はわからない。喘いだフリをして、思い切り背中に爪を立ててやれば、顔をしかめるのは彼の方だ。ざまぁみろ。
「っ…いてーよ。」
僅かに舌打ちの音。ギリっとベッドに押し付けられた手首が痛い。つい顔を歪めたら勝ち誇ったような顔をされて、さらにむかついた。苦し紛れにべっと舌を出してやる。なんて子供なぼく。こんな子供相手に、目の前の男はナニをしてるんだか。
ついさっきまで無表情だった彼が苛立ちを露にする。無言の作業が乱暴で、快楽の前に痛くて泣きそうだ。それでも、涙の一つでも流してやろうかと企めば快楽に負けてしまう辺り、この男の技術は凄いと思う。流石ぼくの認めた男。多分、ぼくの方が巧いけど。これは負け惜しみじゃない。決して、断じて。
後をひくようなキスをされて、少しだけ吐き気がした。気のせいということにして流してしまおう。視線で先を促してやったら、にんまりといやらしく笑って腰を抱き寄せられた。その笑顔に、どっかの誰かがダブる。気のせいにして流せない自分が腹立たしい。
切羽詰ってくる身体と共に、早くこの脳内をもどろどろに溶かしてくれないものか。愛の囁きも、優しい愛撫も、必要となんかしていないのはわかっているだろう?無駄な思考能力もいらない。今はただ、忘却が欲しい。
行為が終わった直後、男は不機嫌そうに煙草を吹かしていた。匂いがそこかしこに付くからキライだ。そう訴えたら、顔面に煙を吹きかけてきた。最低。
お互いの苛立ちと不機嫌な感情が絡み合うように部屋に充満して、空気が重い。つまらぬ現実にサヨナラを、さっさと眠りの世界に足を踏み入れてしまおうか。
背中を向けて、ベッドに潜り込もうとしたらいきなり後ろから抱き締められた。貪り食うような先ほどの行為が嘘のように、いやに優しい。突然のことに呆気に取られるぼくの耳に、男の囁きが聞こえる。彼特有の、ぼくの呼称。人間界の仮初めの役名。
「…探偵。」
「何?」
「冷てぇ返事。」
「だから、何?」
「いつもそんなん?鳴神ん時とかも。」
「…つまんないことしか言わないなら、寝て良い?」
「やだ。寝かせねぇ。」
子供の意地のような物言いをすると、彼はちゅっと音を立ててぼくの耳にキスをした。そのまま舌でなぞるように首筋へ、唇を移動させる。勝手にさせておくと、わずかに歯を立ててきた。それは、マズイ。
「ちょっと!跡付けないでよ。そうゆう約束でしょ?」
ぼくの抗議を鼻で笑い飛ばして、彼はくっきりと真っ赤な刻印のような跡を残した。ふふんっと満足そうに笑う彼が憎い。それよりも、今この状況を作り出しているアイツの不在が憎くて憎くて仕方がないんだけど。
擦ったところで消えることない赤い痕跡に、聞こえよがしに舌打ちをしてやる。言い訳を考えるのが面倒だ。さて、どうしてくれよう。
苛立ちを隠さないぼくを、彼は未だに後ろから抱きしめている。顔を見せずに、こんな優しく抱きしめ続けられたら、つい誰かと錯覚してしまいそうだ。実に腹立たしい。
「…俺じゃ、不満か?」
「大いにね。」
囁きのような馬鹿ばかしい質問に、感情を露に答えてやる。分かりきったことを聞く君が悪い。仕返しのように、耳元で舌打ちなどしないで頂きたい。
始まりは、利害の一致。彼はぼくを抱きたいと言った。ぼくは、無性に気分が悪くて、何でもイイ誰でもイイから時間を潰していたかった。結果、有り体に言えば浮気という行為に結びついたわけだ。
これといった罪悪感を感じるはずがない。悪いのはぼくじゃない。ぼくとの逢瀬を犠牲にしてまで、バイトに勤しむアイツが悪い。ぼくは悪くない。
いつもと違う全て。違う呼び名、違う癖、違う手つき。否応ナシにぼくに現実を突きつける。快楽も温もりも暇つぶしも、こんなに簡単に手に入るのに、一番欲しいものに届かない。ああ、大いに不満だとも。満たされることなど何もない。
悪いのはぼくじゃない。ぼくじゃないのに、この空虚感はなんだ?
明日の夜になったら訪れる恋人に、首筋に残る今宵の情事の痕跡を見せ付けてみようか。さて、どんな反応を見せるだろう。それも一興…実現させたところで、ぼくはそう言って笑っていられるだろうか。
キスをした。いつものように。無邪気に笑う恋人。そう、いつものように。たかがキス一つ、そんなに嬉しそうに笑うんじゃない。規則正しい鼓動が狂わされる。結局は、いつものように。
ふと、彼の笑みが止まった。目の行き所は、襟首から覗くぼくの首筋。いつもと違うものをその目に映しているんだろう。
「なぁ…ロキ。」
「何?」
「…首。怪我したのか?」
少し骨ばった彼の指先が触れるのは、ぼくの首筋に張られた絆創膏。その下に、恋人以外との赤い痕跡があるのも知らずに、彼は労わるように優しく撫でる。
「うん…ちょっと、ね。」
薄く笑うぼくに、心配そうに顔をしかめた。
「痛いか?」
「…うん、ちょっとね。」
心配そうな顔をするな。心配なら、ぼくの傍から離れなければ良い。ずっとずっと、傍にいれば良いのに。
キズが疼く。首筋の絆創膏の下。赤い赤いキズ。残したのは君以外の男。だけど、深く刻んだのは間違いなく君だ。
寂しさのキズアト。 |
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