「同棲」などと甘ったるいコトバで呼んでくれるな。これは単なる「共同生活」でしかない。
現在の時刻は午後11時半。良い子はとっくに夢の世界の時間である。そんなとっぷりと更けた夜のマンションの一室で、一人の少年がリビングで舟を漕いでいた。頬杖をついた掌からは、今にも顎がずり落ちそうである。
一分後、落ちた。
盛大に額を固い木の机に打ち付け、少年は固まっていた。今夜、実に5度目の出来事である。
「っあ゛ー!遅い!遅すぎる!!」
ダンッと拳で机を殴り付け、勢いよく少年は頭をあげる。少年−ヘイムダルはキレていた。
「何なんだあいつはっ!夕飯を作れと駄々をこねるから、こうやってわざわざこのぼくが起きてやってると言うのに、何故あいつは帰って来ない!」
誰も居ない部屋での嘆きに応えるモノはなく、部屋の隅に寝ていた鷲が一羽、迷惑そうにこちらに背を向けただけだった。秒針の音が、チクタクと静かに時を刻む。
それを見て、ヘイムダルは大きく溜息を吐き出した。
「…寝よう。」
何故、自分が単なる共同生活者に飯を作らねばならない。馬鹿ばかしい、と言い捨ててヘイムダルは席を立つ。そして、睡眠を摂る為に自室へと足を向けた刹那、背後からガラスが割れるような音が聞こえた。嫌な予感に後ろを向いたヘイムダルは、すぐ自分の考えを改めた。
ガラスが割れるような、ではない。ガラスが割れた音だった。そして、そこに佇む一人の青年。
「今帰ったぞ、ヘイムダル。さぁ、このフレイに飯を作れ。」
満面の笑みに高飛車な態度。怪盗フレイのご帰還は完全にヘイムダルの勘忍袋をぶち切った。
「お前なんかに食わす飯はないっ!何でガラス割ってまで、わざわざ窓から入ってくるんだよ、お前は!」
「怪盗たるもの、玄関から出入りしては映えないぞえ。ガラスを割ったのは窓が締まってたからだ。嫌ならヘムがちゃんと開けておけば良かっただろう。」
「言うにことかいて、ぼくのせいかっ!?バカが!いい加減にしろ!」
「フレイはバカでないぞ?天才だ。それよりヘム、フレイの飯は?」
声を張り上げ、怒鳴るヘイムダルにフレイはにこにこと飯の請求をする。その無邪気な笑顔にヘイムダルはついに脱力した。肩を落として溜息をつく。怒鳴り散らしても暖簾に腕押しヌカに釘、空回りする怒りほど疲れるものはない。
そんなヘイムダルにも気付かず、フレイはさらに催促を繰り返す。
「おい、ヘイムダル。立ったまま寝るでない。フレイの飯はどうした。」
「…食いたいなら自分で作れ。ぼくはもう寝る。明日は早いんだ。」
完全に脱力し切った、気の抜けた声でヘイムダルは言葉を返す。そしてフレイに背を向ける。その肩を、フレイの大きな手が引き留めた。追って耳に響く真剣な声色。
「やだ。ヘムの飯が食いたいのだ。」
予想外の展開に面くらい、慌てて振り向いた先には……真剣な声からは程遠い、バカ面で笑うフレイがいた。
「奇遇だな、ヘム。明日はフレイも早起きなのだ!何故だか知りたかろう?実はぁ…大和撫子を久しぶりに追跡するのだ!うっわー、フレイ楽しみ〜☆だから、フレイは明日に備えて栄養もつけねばならんのだ!ヘムの飯は美味いから、たくさん食うのだ!…ってヘム!フレイの話の最中に寝るでない!」
あまりのくだらなさに耐え切れず、床にへたり込んだヘイムダルをフレイは叱りつける。むしろ、怒りたいのはヘイムダルの方である。
ヘイムダルに、他人の恋愛を応援してやるほど寛大な心は欠片もない。そんな貧相な心に怒りが加われば、厭味の一つも零れるものだ。
「…ぼくは、お前の大っ好きなあの大道寺まゆらとキスをしたコトがある。」
静かに告げられたその言葉に、おちゃらけていたフレイの表情が凍った。
あれは、あの口付けは作戦の一つで、女に対しての感情など皆無だった。胸に渦巻くは憎き者への復讐の思い。それでも『キス』と呼ぶのは間違いではない。
フレイが明らかに多少なりとも精神的なダメージを受けたのを見て取って、ヘイムダルは内心ほくそ笑む。そして立ち上がりふんぞり返ると、得意げにさらに言い募った。
「お前がいきなりそんなコトしたら犯罪だけどな。ぼくは子供の姿だから許されるんだ。今でもあの女の唇の感触は覚えてる。お前がどんなにあの女を見た所で、この感触はわからないだろう?」
生き生きとした表情で、ヘイムダルは勝ち誇った笑みを浮かべる。
が。
その笑みの形の唇に、フレイは自分の唇を重ねた。突然の出来事である。
「ん〜…っ!?」
ヘイムダルが自分の身に何が起きてるかを自覚するのにかなりの時間を要した。目に映るは闇、唇を覆う感触、頬にかかるさらりとした黒髪…自覚した時には時既に遅く、抵抗しようにも息苦しさに力が入らない。唇とともに、呼吸すらも奪われた。
「っぷは!」
やけに長く感じる口付け。だが実際は1分も経過していない。しかし突然唇を奪われたヘイムダルは時間の長短に関わらず憤怒した。至極当たり前のコトである。怒りで言葉も出ずに肩を震わせるヘイムダルの前で、唇を奪った張本人は喜びに浸っていた。
「きゃー、フレイったらまゆらちゃんと間接キッス☆」
くるくると舞い踊るフレイに、ヘイムダルは開いた口が塞がらない。呆れかえり、真っ白になった脳内に沸々と怒りが蘇る。
「っ…〜フレイ!もう二度とお前に飯を作ってやるもんか!!」
働かない頭から捻り出した怒りの言葉は情けない。それでも、語調には確かな怒りを込めて言い放ち、三度ヘイムダルは背を向けた。
その脇を、青い影が行き過ぎる。
「今晩の飯は美味であった。次も頼むぞ、ヘム」
すれ違いざま、調った顔が屈託ない笑顔を残す。
「っだ、誰が次なんか…ッ!」
瞳の赤よりなお赤く染まったヘイムダルの顔面は、怒りの為だけではないだろう。
その感情が、新しい話を作るのはまた別の物語…になるかはわかりません。(ご想像にお任せします/逃)
蛇足:翌日、フレイは大道寺まゆらの学校登校日を朝早くから追跡。ヘイムダルは夜遅くまで悶々と考えすぎて眠れず、見事に夏季講習に遅刻しましたとさ。
|