JR福知山線事故について

107人の死者と多数の負傷者を出した「JR福知山線脱線事故」から1ヶ月。
ブログ「東一条定点観測」で書いた2つの記事です。(2005.5.25 Up)

 「リアリティー」(2005.4.26)

―2005.4.25
日本の鉄道史において、決して忘れてはいけない日になってしまった。
何のことか言わなくても、おわかりであろう。昨日のJR福知山線の脱線事故のことである。

最初はこの件について書く気はなかった。むしろ書く気になれなかった。
でも、決して関心がなかったとかいう訳ではない。非常に近場で起こった事故であるし、日常的にJRを使ってはいない僕だが、 決して乗らない路線というわけではなく、この区間も2週間ほど前に乗っている。

なぜ書く気になれなかったのか。
事故後早い段階でラジオのニュース速報でこの事実を知っていたし、その後もネットのニュースで地獄絵のような画像とかもたくさん見ている。 ただ、家にテレビがないこともあって、「映像」を1日半経った今でもまだ全く見れていない状態にいる。そのことが響いている。

確かに、ラジオのニュースで、そしてネット上の新聞記事で「事実」に関して知識を得ているのだが、いまだにリアリティーがわいていないのである。 身近なところに被害を受けた方がいる人がこの一文を見たら憤りを覚えるかもしれない。

だから書く気になれなかった。こんなリアリティーのないヤツに一体何が書けるのか?
感情論的に「悪者」を批判するだけの記事を書くのは、単なるヤジウマに過ぎない。かといって、今さら事実だけを淡々と述べる「ニュース記事」を書くのも気がひける。


結局、このような記事を書いている。
そのきっかけになったのは、母親からの1通のメールである。別に、安否を心配するメールではない。 京都にいたことは承知の上で送られてきたメール。事故後8時間後に送られてきたそのメールにはわりと強烈なことが書かれていた。

あの列車に妹の友人が乗っていたという。
幸い、彼は無事だったようで、テレビのインタビューに答えていたらしい。
…彼を直接知っているわけではないが、他人事ではなかったのである。

僕のまわりでは、あの区間を日常的に乗っている人に心当たりはなかった。
そして、あの列車に乗っていたという話も今のところ聞いていない。

ただ、母親からのこのメールを受けてすぐにこの記事を書こうと思ったわけではない。依然として書くか書かないかを迷っていた、 悩んでいた。他人事ではなかったとはいえ、リアリティーがないのは相変わらずだったから。本当にどんなことが書けるのか?
…本当のことをいえば、今も悩んでいる。こんなことを書いてもいいのか、と。


あの電車は、快速同志社前行き。あの後、尼崎から東西線を通って、片町線の同志社前まで行くはずだった。 例の列車に乗ってた彼も含め、多くの同志社大学・同志社女子大学の学生がJRを使って通学している。あの区間を利用している人も少なくはないだろう。

事故の起こった時刻は9時20分頃。
あの列車は10時15分に同志社前に着くはずだった。15分に1本しか同志社前までいかない中、たしか10時45分から始まる2限から通学する人にとっては都合のよい列車。

7両編成で走っていたが、そのうち後ろの3両は手前の駅で切り離されるため、同志社前までは前の4両しか行かない。そう、前の4両。
車内が混雑している場合は比較的すいている後ろの3両で座って、切り離し駅で前の4両に乗り移るという学生もいる。 しかしながら、混雑覚悟で前の4両に乗っている人も多いだろう。そもそも、すいていたから前の4両に乗ったという人もいるだろうし。

同志社大学では学生2人が死亡したと発表した。この人数が多かったか少なかったか一概には言えない。貴重な命が奪われたのだから「多かった」ことは間違いない。 ただ、これが1時間半ほど前の列車だったらどうなっていただろうか。考えるだけで恐ろしい話である。

これを書いている現在、死者は76人(※:記事作成時現在)に上っている。
先ほども書いたが、これが朝のラッシュならどうなっていたのだろう。列車の定員は7両で1000人ちょっとになる。もっと大惨事になってたことは間違いない。

でも、なぜ4、5両も脱線し、76人も死者が出たのか…。
JRが悪いことは確かではあるが、「何が」「どれくらい」悪いのか?今のところよくわからない。運転士はオーバーランしたとはいえ、 なぜ制限速度を30キロもオーバーして走行していたのか?もっとも、この点についてはわかりようがないのかもしれないが。

とりあえず言えることが一つある。
被害を受けた方には本当に申し訳ない書き方になるが、この事故を「教訓」として、このような大惨事が二度と繰り返されないよう、 安全を肝に銘じて運行していただきたい。


僕は列車に乗るとき、よく外を眺める。
あの列車に乗ってた人の中にも、同じように何げなく外を眺めていた人もいただろう。あのとき、どう思ったのだろうか? そんな体験をしたことはないので確かなことはかけないけれども、想像するだけでぞっとしてしまう…。


この事故で犠牲になった方々、その家族、身近な方…。
ありきたりな言葉で申し訳ないが、この場を借りてご冥福をお祈りいたします。


 「続・リアリティー」(2005.5.3)

先週、「リアリティー」という題で、脱線事故についての記事を書いた。
そのときは、その続きを書くとは全く思っていなかった。もとの記事すら、書こうか書くまいか悩んでいたんだから。

おととい大阪の家に帰って、その時に、その日(次の日?)のビデオを見た。
先週の記事にも書いた通り、京都にいる限りではテレビがないため映像が見られなかった。で、大阪に帰って(事故発生7日目にして)初めて見る映像である。

このビデオは、もともとは僕に見せるために録画されたのではない。結果的に「保存版」という扱いになって、僕も見れることになったが。
録画の理由は、その列車に乗っていた、妹の友人がインタビューに答えていたから。

先週の記事でも、彼が乗っていたものの、無事でインタビューに答えていたことまでは書いた。 しかし、その時は、彼がどこに乗っていたかとか、どんな状態でインタビューを受けていたのかとかいう状況については全く知らなかった。
そのため、僕は勝手に、後ろの車両に乗っていた人に片っ端からインタビューしてる中の一人だと思っていた。


…しかし現実はそうではなかった。

「僕の妹の友人」という関係を知らなくても、「ひとりの生存客」としての彼を、非常にたくさんの人が見ただろう。これを読んでいる人の中にも、彼を見た人は多いと思う。
ただ、勝手に名前を出したりするようなことはしないが。

彼は、あの1両目に乗っていた。そして救い出された。
インタビューを受けていた彼は、首にコルセットを巻き顔に傷跡が残るという、非常に痛々しい姿だった。 そしてその映像で、あの事故の重大さをあらためて知った。そこで、ものすごく「リアリティー」を感じたのである。

その後も、彼は家でインタビューを受けたりしていた。NHKの特番だったらしいが。
確かに「生死」という観点から見ると、「無事」そのもの。亡くなられた107名の方々が1両目、2両目に集中していたことを考えると、「九死に…」という話である。
ただ、彼を見る限り、簡単に「無事」というのは難しい。けなげにインタビューに答えてはいたけれど、あの列車に乗り、あれだけの(軽症だとは思うが)ケガを負ったのだから。


同志社前行きの列車は通常、同志社前駅では、行き止まり式(頭端式)のホームに到着する。改札に渡る通路が前(木津方)にしかないので、いつも通りに彼は1両目に乗っていたということらしい。 他の同大生、同女生も1両目に乗ってた人は多いだろう。

彼は車両の中間部に乗っていたようで、マンションの駐車場に突っ込んだとき、さほど潰れず車内に空間が生まれたことで外に脱出できたようだ。 少しずれていたら、亡くなっていたかもしれない…。恐ろしい現実である。
先週の段階では、僕の周りでそんな情報はなかった。その後、友人の親がその列車に乗る可能性があったという話を聞いた。結局は乗らなかったそうで、難を逃れたようだ。

妹の友人の彼や、(僕の)友人の親の、そういう話を聞いていると、幅は別として「一歩手前で助かった」という人は確かにいる。だがその一方で、107名もの人が亡くなってしまっている。

この約1週間で、事故についてのさまざまな情報が出てきた。事故の原因についても、徐々に特定されてきつつある。 ほかにも、一般論、車両構造の問題、そして「西日本旅客鉄道」という組織に関する問題など、いろいろ。

JRは、国鉄時代からの強力なインフラを活かしてサービスを行っている。
京阪神間の私鉄との競争に関しては、今やそのインフラのおかげ(ほかにも阪神大震災の影響もあるが)で他を圧倒している。 その影響もあり、福知山線も競争相手の阪急に圧力をかけている。その鍵となるのは、スピードなど「利便性」である。

ただ「利便性」だけでは、乗客には信頼されない。「安全性」あってこその「利便性」である。 今回の事故の遠因として、快速電車の中山寺駅への停車がいわれている。停車駅を増やしてにもかかわらず、所要時間を変えなかったとのこと。

「所要時間が延びる」ということは、「利便性」という観点からはネガティブなイメージである。そのネガティブさをできるだけ生じさせないために、 「安全性」がおろそかになったのであれば、この事故は起こるべくして起こってしまったのではないか。
その後のJRの対応を見ても、やはり「利便性>安全性」というのが見え隠れする。


JRだけではない。もし「利便性>安全性」と考えているのであれば、それは本末転倒である。 乗客は確かに「利便性」を期待しているが、それ以前に「安全」であると思うからこそ「利便性」を期待するのである。当然、「安全性」を「利便性」より優先すべきである。

…この事故は、どんな教訓を残すのか。
残らないようであれば、107名の尊い命と、周りの方々の悲痛な涙を無駄にすることになる。それだけはあってはいけない。先週の記事の最初に書いた通り…

「―2005.4.25
日本の鉄道史において、決して忘れてはいけない日になってしまった。」

皆の願いである。