「震災10年」

あの阪神・淡路大震災から、今年で10年。
ブログ「東一条定点観測」では「震災10年」というタイトルで記事を書きました。(2005.5.25 Up)

 「震災10年(上)」(2005.1.17)

―1995年1月17日午前5時46分52秒―

そのとき、阪神大震災は起こった。
僕は当時小学5年生、大阪に住んでいた。大阪の気象台が発表した震度は「震度4」であったが、気象台が上町台地という硬い岩盤の上にあるので、あまりあてにならない。 建物の8階にある僕の家では、揺れは今の震度でいうと「震度5強」と言ったところか。

揺れ始めても、すぐには僕は起きなかった。ベッドの横の本棚の上に置いてあった空箱が頭上に落ちてきて、初めて目が覚めた。
あの箱の中に物が入っていたらどうなっていただろう。考えると多少怖い。

部屋の中は、学習机や本棚から本が散乱し、足の踏み場もない状態。ただ、幸い家具の倒壊はなかった。食器棚の扉が開かなかったおかげで瀬戸物、ガラスの散乱はなかった。 これも幸いといえるところだろう。しばらくテーブルの下に身を潜めて、ラジオを聞きながら余震が静まるのを待った。

当日は火曜日。僕の家の周りでは登校不能という状況ではなかったので、「一応」登校の準備。その途中の午前7時半過ぎに大きな余震が起こって驚いたことを覚えている。 学校に到着後、たぶん講堂で全校生徒で話を聞いたと思う。その後、教室に行き、花瓶が倒れて割れている以外は問題がないことを確認したが、とりあえずその日は授業中止。すぐに家に帰った。

家に帰った後、テレビを見て、朝の地震が恐ろしい威力だったことを知る。
僕の家の周りでは、電気、ガス、水道といったライフラインはすぐに復旧した。壊れてた温水器の修理の予定が震災で遅れて、風呂に入れなかった記憶があるが。


そこまでは、当日の様子を覚えている。だが、そこまでしか覚えていない。
当日の夜に何をしてたかとか、テレビでどのようなことを言っていたかなんかは全くと言っていいほど覚えていない。阪神高速の高架橋や阪急伊丹駅の倒壊、長田区の火災などを見ながらただただ驚いていただけのような気もする。


当時、僕は兵庫県西宮市の学習塾に通っていた。前日も西宮で授業を受けていた。
地震当日、電話があり「今週の授業はない」と。まぁ、やれというほうが無理だ。交通機関の復旧もままならない状況でもあるのだから。
一応、翌日には阪急神戸線の梅田〜西宮北口間が復旧しているので、無理をすれば行けたことは行けたが…。

2、3日後その塾から封書が届き、「1月末まで授業は中止」とのこと。ひょっとしたら2月中旬までだったかも知れないけれども。
僕は小学5年で、中学受験まであと1年を残していたが、1つ上の学年はそんな余裕は当然なく、兵庫県の中学の入試が1ヶ月延びた(2/1→3/1)とはいえ大変な状況だっただろう。

2月上旬(中旬?)、震災後初めて塾の授業が行われた。
震災前と同じように、阪急電車に乗り込んだ。だが行先は全て「西宮北口」。西宮北口〜夙川間は高架橋の崩壊のより6月まで不通だった。

車窓から見られた景色には、青いビニールシートが多く見られた。屋根の瓦が飛んで、その応急処置としてのビニールシートである。
見えるもの全てを目に焼き付けようと思い乗り込んだ車内で、特に強く目に飛び込んだ物がある。武庫之荘駅前のマンション。

建物の両端の部分はしっかり残っていたものの、1階がガレージになっていた中央の部分は片側が大きく沈み、「断層」のようにずれていた。僕はこのマンションを個人的に「断層マンション」と呼んでいた。

建物が壊れ、廃墟になりかけの西宮北口駅前を通り、塾に到着した。
塾の建物の中にも半壊のため当分使えないというものもあった。復旧されないままそのまま潰されてしまった建物もあった。
塾の友人には、特に不幸があった人はいなかったようだ。家が半壊で知人宅に避難しているという人はいたが。


その塾の再開の頃の前後、父親に連れられて家族で神戸に行った。
1月末に、阪神電車が青木駅(神戸市東灘区)まで復旧したため、「神戸」まで行くことができた。そこからJR芦屋駅まで国道2号線を歩いた。

距離にして3〜4kmほどである。だが、とてつもなく長い道のりに感じたことを覚えている。まだまだ復旧の目途の立たない家や、重機で壊している真っ最中の家も多く残っていた。気分も重く、本当に果てのないようなしんどい道のりだった。

芦屋駅にやっと到着し、手売りの券売や仮設のホームなどを見て、復旧の大変さを思い知った。だが、当時大阪から来れるJRの西の端だった芦屋駅。非常に人が多く、ラッシュ並の混雑の中、大阪駅まで帰ってきた思い出がある。

だが、やはり「被災地」と呼ばれる地に立つと、大阪では気づかなかった震災の威力を真に体感する。だが、それでも神戸の東端。長田区や兵庫区といった、火災が猛威をふるい、街が「なくなってしまった」地に行くことはできなかった。
行くべきだったのか、行かないままでよかったのか、今となってはよくわからない。


震災から1ヶ月、2ヶ月と経ち、ライフラインや鉄道といった交通網も徐々にではあるものの、確実に復旧が進んできた。
西宮へと向かう電車の中から見える風景にも、ビニールシートの数も確実に減っていき、依然として残る一部を除いては、徐々に震災の爪痕が隠されていっていた。

当時、家族の中で唯一兵庫県内に「通っていた」僕は、自分の目で見たもの、感じたものを逐一家族に報告していたような気がする。

西宮まで通ってはいたものの、ほとんど被災していない大阪人の僕でさえ、かなりのインパクトを受け、ちっぽけながらも今ここに「震災記」を書いている。 それを考えると、実際に被災された人の、生々しいほどの「震災体験記」は非常に大きな意義があると思う。震災の大変さを知ることで、復興への道筋が開ける。多少は当てはまるだろう。

とりあえず、「震災10年」の今日はここまで。


 「震災10年(中)」(2005.1.18)

(上編より続く)

西宮北口どまりだった阪急神戸線も、阪神線も6月には全面復旧した。神戸高速や地下鉄の駅で依然復旧中の駅はあったものの、鉄道網は8月にはおおむね復旧してきた。
その当時は神戸に行くことがほとんどなく、尼崎と西宮しか見ていなかったが、この頃には、徐々にではあるが復興に向けて動いてき始めた頃かもしれない。

秋には「がんばろうKOBE」をスローガンに掲げた、オリックスブルーウェーブがパリーグ初優勝し、12月には震災犠牲者への鎮魂の意と復興への希望を表すために「KOBEルミナリエ」が初開催された。いろいろな意味で、光が灯っていった。

そんな中、受験を控え毎日西宮まで通っていた僕は、相変わらず車窓を眺めていた。
小さな変化も気になっていたからだが、手つかずのまま置かれていた、武庫之荘駅前の「断層マンション」と、西宮北口北東部の荒廃した風景だった。 あと、西宮北口駅南西部への階段も壊れたまま放置されていた記憶がある。

震災から1年が過ぎ、中学受験に合格し、96年4月、中学生になった。
中学校は西宮市の南西部にあった。引き続き西宮市内に通うのだが、阪神電車を使うようになった。だが、それまで震災前から2年間見続けた光景が気にならないわけはなく、たびたび阪急電車を用いて帰ったりもしていた。

4月末、初めて西宮北口北東部に降り立った。塾時代から気になっていたが、塾が北西部にあったこともあり、それまで一度も降り立ったことはなかった。
中学生になり、時間の制約も少し緩くなったところで、「自分の目に焼き付けておくために」歩いてみることにした。

震災から既に1年3ヶ月も経っていたにもかかわらず、そこだけ時が止まってるような感じを覚えた。もとは商店街のようになっていたのだが、そこで僕が見た光景は、一部の店が仮店舗で営業してるのと、その周りに広がる広大な空き地。
比較的被害の少なかった北西部では復興が進んでいたので、それと比べると、ほとんど手つかずのままの状況に大きな衝撃を受けた。

昨日の新聞に西宮北口北東部の震災直後、しばらくした後、現在の写真が載っていた。
倒壊した建物が映っていた震災直後の写真についてはよく知らなかったが、仮設店舗で営業してる様子が映っていた「しばらくした後」の写真を見て、あの頃を思い出していた。


西宮市内にあった通ってた中学でも、当然震災の被害を受けた。
中1の秋頃だったか、震災の被災状況、復旧の様子が記された「震災記」を中学校から配られた。当時の中高合わせての全校生徒の中で、不幸にも一人の方が震災でお亡くなりになったそうだ。その人に向けてのクラス全員の手記もその「震災記」に寄せられていた。

中学校の時計のひとつが、現在も「5時46分」という地震の発生時刻を示して止まっている。「震災記」で見る前から気づいていたものだが、数年前、この時計が「震災モニュメントマップ」に載った。やはり歴史を伝える必要があるからだろう。

僕も自分で目に焼き付けるだけでなく、「記録」として残す必要があったかもしれない。
先ほどの西宮北口の話もそうなのだが、当時の様子を写真に残していないことを後になって非常に悔やむ。今のように、いつもカメラを持ち歩いていたら…。せめてレンズ付フィルムくらいでも持ち歩いて撮っていたらよかったのに、と。


中学生になると、少しずつ行動範囲が広がり、よく神戸市内にも出かけるようになった。
中2の頃だろうか、長田区や兵庫区といった、特に被害の大きかったところにも出かけるようになった。ところどころ残るプレハブの建物と空き地に、2年以上前の災害の被害の大きさを感じ取って、現実を見た感じがした。

同じ頃、西宮北口北東部に仮設集合店舗「ポリテンカ北口」がオープンした。「ポリテンカ」という名前は「仮店舗」をひっくり返したもの。
北東部に点在していたお店が「ポリテンカ」に集まり、あとは空き地になった。いよいよ再開発の準備が整った。

とはいえ、なかなかすぐには着工されず、しばらくは空き地のまま残っていた。
阪神電車で通っていた中学生の間はずっと、たまに阪急電車で帰り、西宮北口を歩いていた。当然、もうひとつ気になっていた「断層マンション」も見ていた。

いつの日か、その「断層マンション」も、崩れず残った端っこの一部を残してきれいさっぱり片づけられていた。2年くらいと長らく放置されていたこの建物に変に愛着をもっていたので、「変わってしまった」という衝撃とともに、すごい寂しい感じを受けた。


99年、高校に入学した。今度は同じ西宮市内でも山手にあり、再び阪急電車で通うようになった。しばらくして、空き地だった西宮北口北東部も区画がフェンスで囲われ、いよいよ再開発が着工された。 復興のために再開発が行われるのは当然であるのだが、震災前とは全く違うスタイルでの再開発になってしまったことを残念に思ったことは確か。

「断層マンション」に関しても、解体してしばらくは駐車場となっていたが、新しいマンションの建設が始まっていた。

中学・高校の間と神戸にはちょくちょく行っていたものの、断片的にしか見ていないので、どこまで復興が行われているのか、なかなか判断できなかったのは事実。 一方、震災前から眺めていた西宮・尼崎の風景を、復興へのバロメータにして僕は街を見ていた。

見た感じは着実に復興が進んでいる街ではあったが、僕はどこか「外様」な感じがしていた。どうやっても、震災の時そこにいた人々の心を知ることはできない。 そして、さまざまなものを失ってしまって、ぽっかり穴が空いてしまった多くの人の、その心が震災から何年と経った後、どこまで復興しているのかも知ることができないから。

「震災」の風化が叫ばれていたが、「外様」の僕自身、復興の進んだ街を当然と思うところがどこかにあったと思う。 だが、最後まで残っていた2つのモノのおかげで、観察しどこかであの記憶を思い出すということができたのだと思う。


本当は今日終わるつもりだったが、書いてるうちにどんどん出てくる。また次回。


 「震災10年(下)」(2005.1.19)

(中編より続く)

高1だった99年10月、武庫之荘駅前の「断層マンション」跡地に新しいマンションが建った。「フォルザ武庫之荘」というらしい。震災の記憶を残すためにモニュメントも設けられたようだ。

電車から見るとわかるが、この「フォルザ武庫之荘」の西側に細長い建物がある。この建物こそ、「断層マンション」の残った端っこである。今では何事もなかったように細々と立っている。 この部分を残した理由はよく知らないが、これも一種のモニュメント的なものとして残ったのかと思ったりもする。

だが、「フォルザ武庫之荘」に入居してる人のうち、その西側の建物についてどれだけの人が知っているのだろうか。さすがに前から地元にいた人は知ってるだろうが、越してきた人とかは知らないのではないかと思う。


僕も高3となった2001年4月、再開発中だった西宮北口北東部にマンション付商業施設「ACTA西宮」がオープンした。再開発の中核となる建物が完成し、仮設商業施設「ポンテリカ北口」はその役目を終えた。 「ポンテリカ」の店の一部は「ACTA」に入った模様だが、近所に移転して再開業する店や廃業する店もあったようだ。望む望まざるに関わらず、ひとつの区切りが訪れた。

「ACTA」の工事に伴い北東部に行かなくなった僕だったが、「ACTA」のオープン後は、図書館ができたこともあり、ちょくちょく訪れた。
だが、そんな僕も2002年2月、高校を卒業した。8年間続いた西宮通いの生活も終わることとなった。


大学に入学し京都へ通うようになって、西宮にめっきり行かなくなった。甲子園球場には行ったりもしたが、西宮北口で降りることはほとんどなかった。 交通費もかかり、足を伸ばしにくくなったことは確かであるが、それ以上に「震災からの復興」という目的の再開発が終わったことが影響しているのではないかと思う。

きれいになり、さらに魅力ある街になったことは確かであるが、僕がそれまで見てきた「震災の爪痕」であったり、何か「不完全さ」みたいなものが見えなくなってしまって、 「ごく普通の街」になってしまったような印象を受けたのは事実である。
「復興」ということは喜ばしいことだが、わざわざ足を運ぶほどの魅力は感じなかった。

昨年、僕が企画してデジフォトの神戸撮影会を行った。他の人がどう思ったかは知らないが、僕はやはり震災について感じるものがあった。 東遊園地のマリーナ像や希望の灯や「慰霊と復興のモニュメント」などを初めてしっかりと見た。また、中突堤の広場にあるパネルを改めて見たりもした。
やはり「知ること」と「伝えること」。この2つの大事さを味わった。


そして、震災10年となる2005年1月17日を迎えた。
神戸だけでなく、阪神間、はたまた各地でさまざまな追悼の催しが行われた。
この10年間が長かったのか、短かったのか、判断するのは難しいことだろう。

その日、1月17日未明。僕は地震に遭った夢を見た。「揺れてる」間に慌てて目が覚めて「夢」であることがわかったが、やはり「震災10年」の意識が個人的に強かったからではないかと思う。


昨年10月に起こった新潟県中越地震、そして年末に起こったスマトラ沖大地震・津波と非常に規模の大きい地震が続いている。また、昨日の記事を書いてる間にも北海道で震度5強の地震が起きた。

新潟県中越地震では、地震規模や建物の損壊具合に比べて、幸いなことに比較的死者が少なかった。だが、山古志村や川口町など復興の進んでいない地域もあり、雪による二次災害も危惧されている。
一方、スマトラ沖大地震・津波に関しては、約1ヶ月経った今でも依然として正確な被害状況がつかめないほどの甚大な被害が出た。地震や、特に津波の対策が甘かったことが被害の拡大を招いたともいわれている。

地球全体での地震活動が活発になってきているのかもしれない。
日本でも、幾度となく東海・東南海・南海地震の危険性が伝えらてれいる。それ以外にも日本各地で確かに地震が起こっている。

起こってからでの対策では遅い。日頃から地震についての備えが必要である。
阪神大震災直後にも同じように対策の必要性が言われていたが、やはり10年も経つとその心も忘れてしまったりしてるかもしれない。

あの日、あの地震を体験した人はあの記憶を思い出して再確認し、体験しなかった人は地震の恐ろしさを知ることだけでも大きな意味を持つのではないかと僕は思う。
今の自分への戒めとしても、この震災記を書いたりしている。

あの日の悲しみが二度と来ないように祈りつつ…。


―――
3日に分けて書いた「震災10年」ですが、3日とも長文となってしまいました。
直接の被災者ではない僕ではありますが、8年間通い続けた「西宮」には相当な思い出があります。この文章を通して伝わったかと思います。

被災された方の、当時の生々しい「震災体験記」には、やはり重要な「教え」がたくさん詰まってるような気がします。僕のこの「震災記」とは比べものにならないでしょう。 とはいえ、僕もこの目で見たり、感じたりしたものから、僕なりの重要なことを書いたつもりです。この記事を読んで、何か伝わっていれば幸いです。

ここまで3日間、かなりの長文をお読みいただき、ありがとうございました。(了)