花園駅での追突事故

 昭和20年代初頭、日本の各地で鉄道事故が発生した。
近畿日本鉄道も例外ではなく、花園駅(現:河内花園駅)での追突事故が起こっている。
 「一般の歴史の本では昭和二〇年八月に大きな区切りをつけている。(中略)
しかし鉄道旅行に関しては、この区分では実態に合わないと私は考えていた。
鉄道は敗戦によって停止することなく走っていて不連続感はなかったし、旅行事情は
敗戦後のほうが悪化していた。その状況は惨憺たるもので、そこまで書かなければ
鉄道の昭和前半史にならないと思ったのである。」
宮脇俊三氏は『増補版 時刻表昭和史』の「増補版・あとがき」にそう記した。
宮脇氏が見た「惨憺たる状況」とは石炭事情の悪化で本数削減やむなしに至った
国鉄の姿である。しかし、近鉄は別の側面において惨憺たる状況に至っていた。
 1948(昭和23)年3月31日、瓢箪山駅に運転司令室から電話が入った。
時は朝のラッシュアワー。先程瓢箪山始発の上本町六丁目(以下上六と略す。)行普通電車(774列車)を
発車させたところである。
「752(準急)を待避させろ。712(急行)が石切に停まらず暴走している。」


 瓢箪山駅は上図のような構内配線である。
真ん中の二本は通過列車の為用いられ、停車する列車は側線へ入る。
本来通過列車である上六行準急電車752列車が停車列車の為の側線へ入ったのを見届けて
通過列車用の本線へポイントを切り替えるとすぐに712列車は目にも留まらぬ速さで
通過していった。
 運転司令室は直ちに花園駅へ電話を入れようとしたが、連絡はつかなかった。
電話線が混雑していたのである。連絡がついた時には、「時既に遅し」であった。
 当時の近鉄奈良線は現在線と異なり、生駒トンネル(3388m)を出ると
孔舎衛坂(くさえざか)という駅があった。その付近が半径200mのカーブで、
制限速度は40q/h。712列車は生駒駅にて1両分オーバーランした。その時、既にブレーキの効きが
異常を来たしていたのである。助役の「行けるか。」の問いに、しかしながら運転士はうなずいた。
 712列車(奈良7時20分発)は3両編成。前2両はモ1形で大軌が上六〜奈良間を全通させた
1914(大正3)年に登場し、大軌時代はデボ1形と呼ばれていた(先頭が9、2両目が11)。
最後尾はモ19形の27で1920(大正9)年10月、デボ1形の増備車として10両が製造された。
(大軌時代はデボ19形) 全長13818o、高さ3651oで、1930(昭和5)年にポール集電から
パンタグラフ集電に改造された。ところが、そもそも大軌は軌道法によって営業していた為、
生駒トンネルが小径トンネルとなっていた。それゆえ、小型のパンタグラフを採用することとなった。
こうした様々な要素が関わって、生駒トンネルの中程から始まる25‰の勾配において
ブレーキが効かなくなり、孔舎衛坂のカーブを制限速度を超過してパンタグラフを破損し、
大阪平野への連続下り勾配を100q/h以上の速度で暴走したと推定される。
運転士は必死にパンタグラフを架線上に復帰させようとし、また、車内では非常用の
ハンドブレーキを乗客が必死に回し、窓を開けて、皆で床に座ろうとし、ようやく現在の
東花園駅(当時はなかった)付近にて、70〜80q/hへ減速したと推定されるが、その時、
前には774列車が花園駅にて停車中であった。
 712列車は大破し、幸い774列車が発車直後であったが故に、衝撃は緩和された。
死者は49名、負傷者は282名を数えた。各車両の定員が100名であるから、規模にしては
犠牲者は少なくて済んだと言える。人員物資とも底を尽いた最悪の時期に生じた事故と総括できよう。


↑現在の近鉄奈良線快速急行 奈良にて 2004.3.30