青木栄一「交通地理学を考える」を読む
はじめに
青木栄一氏の名前は、私はよく目にした。例えば、時折購入している『鉄道ジャーナル』や、同社の『年鑑 日本の鉄道』の書評欄には必ず評者として載っている。逆に名のみ知って、その業績を今まで紐解いてこなかったことは反省しきりである。
前述のように、私は長年、鉄道に強い関心を抱いてきた。しかしながら、私が属する史学科では鉄道史の研究は傍流であった。思い入れの強い鉄道史の論文に遭遇すると、今でも鉄道史を学問的に立ち上げることは可能なのかと自問自答を始める。であるから、青木氏が鉄道雑誌へ掲載した線別輸送密度図を大学院のゼミで論じて、ひどく怒られたというエピソード(1)は、分からなくもない。今、鉄道史を曲がりなりに学んでいるのは桂島宣弘氏(2)の「鉄道は産業の牽引車ではないか。」という示唆によるところが大きい。
私がこの論文から得ようとすることは、端的に述べれば、鉄道史を学ぶための方法論の一助である。であるから、一歴史学徒からの浅学を顧みぬ臆見にしかならないことは明らかであるが、あえて歴史学再編を企図する意味でも読んでみようと思う。
一. 1997年という時代
この論文が書かれた1997年という年は、鉄道高速化という潮流が一気に押し寄せた年であったといえないであろうか。(3)また、3月8日には関西圏で福知山線一部複線化とJR東西線開通に伴うダイヤ改正で利便性の向上が図られた。一方で『地理』の表紙になったように、9月30日碓氷峠は廃止され、新幹線を建設する毎に、並行する在来線を三セク化していくというルールが確定し、これは東北新幹線延伸(2002年12月1日)にも適用された。11月29日には東京発寝台特急の運転区間が短縮され、この観点から見れば、後世に効率化の嵐が吹いたと書かれるかもしれない。これは、あくまで私の歴史解釈であるが、「交通地理学の研究者はもっともっと、社会問題としての交通に目を向け、研究し、発言してゆかねばならないだろう。」(4)と述べる青木氏が、こうした潮流と無縁であったとは思えないのである。(5)
二. 青木栄一氏の交通地理学の方法
帰納法
青木氏は「演釋的な方法ではなく、徹底した帰納的方法で結論を出すように努力してきた。」(6)と述べている。これは、「マル経史家のドクマチックな研究への進め方には大きな違和感」(7)を青木氏が持つに至ったことともつながる。
確かに、マルクス主義歴史学は、進歩は必然であるとし、発展段階を設定し、演繹的な方法で歴史を叙述しようとした。二段階発展説に立つ講座派の山田盛太郎が鉄道の軍事的機能を強調(8)し、明治維新を絶対主義革命であると断じたのも、まず結論ありきという姿勢が反映しているといえなくはない。(9)
しかし、帰納法で結論を出せば、その結論は絶対的な科学性を持つのか。帰納的であれ、集めた史料ないし資料を取捨選択して提示すれば、そこにおのずから、その研究者のバイアスはかかるものである。(10)
三. 鉄道史に対する青木氏の発言
歴史学と地理学の連係
近年は歴史学も、地理学との連係を考慮するようになった。例えば、桂島氏の「戦後の歴史学で一番大きな成果が挙がったものの一つは、郷土史=地方史」(11)(11)であるという発言や、網野善彦氏が『増補 無縁・公界・楽』(平凡社、1996)などで繰り返し述べていることなどから、これは言える。(12)
逆に、地理学から見ると、谷岡武雄氏のように古文書を利用して、景観を復原していく方法(13)は、歴史学と通ずるものがあると考える。(14)
こうして、ようやく歴史学と地理学の連係へ至る道筋が見えてきたのではないか。
鉄道史においても、原田勝正氏が『鉄道史研究試論』(日本経済評論社、1989)において、同じく地理学との連係を視野に入れた発言をしている。
歴史学と地理学の谷間
青木栄一氏が紐解いた研究史は、私も示唆を受けることが多かった。とはいえ、研究史も「史」という漢字を与える以上、歴史である。それをどこまで、認識しているのか。これは地理学に限った疑問ではない。
(2)で、三木理史氏の「ミクロ鉄道史研究の成果を日本鉄道史の再編成に活用してゆく具体的な提言や方法論的議論はほとんど見られない」(15)として、「近代交通を対象とする地方史研究は、三〇年の歳月を経ながら当初の目的すら達成していないことになる。」(16)と断じたことへ、前述の帰納法という立場で反批判している(17)が、<外側>に居る者から見れば、双方とも問題があると考えられるのである。両者に共通する問題点―つまり両者が共に立っている地盤であるとも言えるが―は、歴史地理学であれ、歴史学であれ、歴史を叙述するということなのであるということの重みを、私が感じないことである。「過去は外国である」(18)と有馬学氏は言う。「外国」と言うのは言い過ぎであると、異論(19)をとなえたいが、私の言い方で言えば、「過去は<他者>である。」ということになろうか。(20)私の言わんとする<他者>とは、<自ら>を除くすべての人である。(21)
おわりに
この論文は、多くの示唆を含み、学ぶところが多かった。であるからゆえ、この論文を与えられた紙幅ではとてもこなせぬほど、幅広く議論が展開されていたと思う。私にとって、既知の竹島紀元氏や原田勝正氏などの名前が出て、交際家としての青木氏の面も見えた。そうした深い懐を持つ青木氏を相手にして、大それた試みではあるが、乗り越える道を見つけようと「模索の旅路へ旅立つ」つもりである。
註(参考文献は註によって代える。)
(1) 青木栄一「交通地理学を考える(3)」『地理42巻12月号』(古今書院、1997)67頁
(2) 桂島宣弘氏は日本近世民衆思想史の研究者である。主著に『幕末民衆思想の研究』(文理閣、1992)、『思想史の19世紀』(ぺりかん社、1999)がある。
(3) 第一に、3月22日に「こまち」が登場し、東京から一本で秋田へ行くことができるようになった。また第二に、同日JR西日本は「のぞみ」に500系を投入し、時速300キロ運転を始め、「世界最速」と各雑誌で謳われた。第三は同日の石勝線高規格化と283系投入による札幌〜釧路間の時間短縮、第四は北越急行開通による東京〜北陸間の時間短縮である。第五は10月1日の北陸新幹線(いわゆる長野新幹線)開通である。また11月29日には500系が東京乗り入れを果たした。
(4) 青木栄一「交通地理学を考える(3)」『地理42巻12月号』(古今書院、1997)69頁
(5) もう一つ、考慮すべき事項は、この論文の(2)が載った『地理42巻11月号』(古今書院、1997)は、「鉄道をつなぐ」という特集を組んでいるということである。そうした<場>に、この論文が提示されていることに注目してみたい。
(6) 青木栄一「交通地理学を考える(3)」『地理42巻12月号』(古今書院、1997)83頁
(7) 青木栄一「交通地理学を考える(2)」『地理42巻11月号』(古今書院、1997)108頁
(8) 山田盛太郎「日本資本主義分析」『山田盛太郎著作集 第二巻』(岩波書店、1984)67〜68頁
(9) しかしながら、山田の『日本資本主義分析』は聖典と見なされ、のちのちまで影響を及ぼした。戦時中は、マルクス主義者たちは公にマルクス主義に立っていることを表明できなかったのであるが、その思想的根幹は戦時中の政治に少なからず影響をもたらしている(有馬学「日本の歴史23」『帝国の昭和』(講談社、2002)
(10) 文章を書くということの物語性を指摘している。であるからとて、実証主義を捨てて、他の方法へ移る訳にもいかない。乗り越えられる方法が今のところないからである。
(11) 桂島宣弘「歴史叙述と『教科書問題』―人は何故歴史を振り返るのか―」『立命館土曜講座シリーズ11<特集>いま、教育の現場で』(立命館大学人文科学研究所、2001)74頁
(12) 各都道府県や市村町から、おびただしい数の「○×県史」「△△市史」なるものが発刊されている。近年の卒論に目を通すと、地理学専攻の人も、しばしば参考文献として挙げているのを見かける(例えば田嶋寛子氏の「砺波散村地域における形態変化の要因―砺波市小杉地区を事例として―」『立命館大学 学生論集第七号』(立命館大学人文学会 学生部会、2001)は、『砺波市史』と『富山県史』を利用した論文である。)。ただ、その扱いは、同時代の人物の心に迫る為ではなくて(これが、歴史学の目的であると言う歴史家もいる(網野善彦「新書y007」『歴史と出会う』(洋泉社、2000)131頁)。) 、あくまで地域を理解する為に使われている。これはGeographyたる地理学の宿命か。
(13) 谷岡武雄「平野の地理」(古今書院、1963)
(14) また、遺物、遺跡を利用した景観復原は、考古学とも繋がる。特に環境考古学は、確立させた安田喜憲氏が地理学科出身であったこともあって、その結びつきは強い。ただ、安田氏が言う縄文文明論は傍証による誇大妄想ではないかと考える。
(15) 三木理史「近代日本の地域交通体系研究」『人文地理第48巻1号』(人文地理學会、1996)72頁
(16) 三木理史「近代日本の地域交通体系研究」『人文地理第48巻1号』(人文地理學会、1996)73頁
(17) 青木栄一「交通地理学を考える(2)」『地理42巻11月号』(古今書院、1997)114〜115頁
(18) 有馬学「日本の歴史23」『帝国の昭和』(講談社、2001)7、9頁
(19) 「外国」と言った場合、そこに成立する国家という枠組を意識しなくてはならない。ところが、<過去>である「大日本帝国」と<現代>の「日本国」には法的連続性が存在する。むろん、両者には断絶がある。
(20) 例えば、大隈重信という近代を生きた人物をどう叙述するのか。大隈に対して、血縁も地縁もない私が大隈を<他者>であると言っても、問題は生じないかもしれないが、私が述べようとすることは、そうした次元ではない。
(21) つまり、血縁のある親や兄弟、地縁のある隣人も<他者>である。歴史叙述には<他者>を理解する姿勢が不可欠なのである。現代の規範を近代に持ち込んで、近代を生きた人物を批判するというのは、この態度から見れば禁じ手である。<他者>という考え方は桂島氏の『思想史の19世紀』(ぺりかん社、1999)で繰り返し述べられている。ただ、あくまで桂島氏は近世に適用したのに対し、私はそれをすべての時代に適用範囲を拡大して使用している。