うそぶき(嘯)

 小中ミノルの失踪を気にかけた者はいなかった。
 ただ一人を除いて。
 もともと彼は、無断欠席の常習犯だった。そのうえ、学校だけでなく、家をも無断で空けることもしばしばだった。
 それは主に好きなアーティストのコンサートに、泊りがけで行くことが目的で、それが数日におよぶことすら、たびたびだった。
 そう、誰もが、いつものことだと思ったのである。
 それで、アケミが夜遅くに自宅に帰り着き号泣した日から、捜索願いが警察に出されたのは、やっと1週間後のことだった。
 その晩アケミの両親は、娘の帰りがあまりに遅いので、心配のあまり夕食どころではなくなっていた。それで娘がどこに居るのか探すために、彼女の友人達に電話をかけまくったが、誰もアケミがどこで何をしているのか、知らなかった。そんなわけで、ついには警察に相談することも真面目に考えていた。
 そこへやっと玄関の戸が開く音がした時、アケミの両親は、不安が一気に怒りに変わり、娘を怒鳴りつけようとした。しかしそれより先に、娘がいきなり号泣したので、今度は血の気が失せてしまった。
 何があったのかを尋ねても、娘の言うことは、いっこうに要領を得ない。
 そして翌日、彼女の彼氏だったミノルが学校に現れず、その翌日も、またその翌々日も現れない。
 学校の教師は、どうせ東京か名古屋に、何かのコンサートにでも行ってるのだろうと思って、何もしなかった。
 彼は祖父名義の家に一人で住んでいたのだが、その祖父は去年アルツハイマー症と診断され、専門の病院に入院していた。
 彼の両親は十年以上も前に離婚しており、ミノルを生んだのは若気の至りと考え、それぞれに再婚をして、水入らずの生活を送っていた。法的には、父親が取り合えずの保護者だった。その父親が警察に捜索願いをだしたのが、事件からやっと1週間後のことだったのである。

 ミノルの失踪を目撃したのは、彼の「彼女」のアケミだった。
 しかしアケミは、しばらくの間、ひどく精神に錯乱を来たしており、医師の話しによると、相当な精神ショックを受けたためだという。
 彼女の両親は、もしやと心配したが、医師は性的な暴行の形跡は全く無いと保証した。むしろこれは、心療内科、もっと悪くなると精神科の分野なのではないかと、彼女の両親に忠告した。
 しばらく間、アケミの言うことは、まるで要領を得なかった。茫然自失になってるかと思えば、突然まるでわけの分からないことを叫びながら、錯乱状態に陥いることもあった。
 例えば、
「十二本の出たり入ったりするナメクジの角」
「生きている結晶」
「一頭多身の怪物」
「万華鏡のような生き物」
「空飛ぶ翼を生やしたイソギンチャク」
 だが、幸いなことに、彼女の錯乱は長くは続かなかった。
 1週間もすると、静かになり、やっと口も利けるようになった。
 1ヶ月も過ぎた頃には、ほとんど回復していた。
 その後、彼女はとりあえず、警察の事情聴取にも応じたが、呼ばれたのは1回きりで、その後は警察は何も言って来なくなった。
 再び学校にも通うようになったが、ミノルの失踪については、何も語らなかったし、またそれを尋ねる無神経な同級生も教師も居なかった。
 それで彼女が、親友のフユミに、全てを話したのは、事件から実に半年が過ぎてからだった。
 そこは、帰宅途中にあるカフェの丸テーブルだった。
 客もまばらで、二人は冷えたカフェオレを注文すると、それを飲みながら話しを始めた。
 依然、ミノルは行方不明のままである。

「ミノルは、斬新な音楽表現を作ったと、そう言い出したのよ。」
 とアケミは始めた。
「ミノル君、バンドを作る計画も立ててたよね。」
 フユミは軽く頷きながら答えた。
「そう、その斬新な音楽のためにね。でも、私は最初から嫌な予感がしてたのよ。」

 ミノルが最初に、その演奏を行なった時、おかしなことが起こった。
 それは放課後の教室に二人だけになった時ぼことだったのだが、部屋じゅうにひどい悪臭がたちこめてきたのだ。そう、まるでドブのような臭いで、下水管のどこかが壊れたんじゃないかとアケミは思った。
 だが、もっと驚いたのは、教室の窓を見た時だった。
 
「蛾が集まって来てたの。」
 アケミは気味悪そうに言った。
「蛾?」
 虫の類が大嫌いなフユミがぶるっと身体を振るわせる。
「そう、それも沢山。」
「夜、光に集まってくるみたく?」
 アケミは頷いた。
「そう。でも真っ昼間だったのよ。あれは百匹以上は居たと思う。」

 でもそれは、アケミが窓に近づいた途端に、さっと一斉に飛び立って、すぐに居なくなってしまったという。
 それ以来、どうにも彼女は、その斬新な音楽表現とやらに、不吉な予感を感じていた。
 しかし、ミノルは、それに夢中で、どんどん「研究」にのめり込んで行ったのだと言う。

 問題の日、ミノルとアケミは共に下校した。
 校門を出るなり、いきなりミノルは、その演奏をしたのだという。
 全ては、それが始まりの合図だったんじゃないかと、今になってアケミは思うようになった。
 二人は、いつもの通学路、すなわちありきたりな住宅街を歩いていたのだが、雰囲気がいつもと違うように感じた。
「ねえ、なんか変じゃない?」
 アケミはミノルの腕を掴んだ。
「変って何が?」
「町の様子よ。」
「いつもと同じじゃないか。」
 そう、いつもと同じなのだ。
 でも、どこかが違う。
「ねえ、あそこの表札を見てよ。」
 それは通学路にある一軒の家だったのだが、門構えが立派でよく目立つ代物だ。
 ミノルは首をかしげた。
「あの表札がどうしたんだよ?」
「あの家、内野さんだっけ?」
 その門の表札には、「内野」とある。
「ああ、内野って書いてあるよな。」
「あの家、確か内田さんだったと思うんだけど……」
 ミノルは、妙な顔になった。
「何を言ってるんだ? 内野って書いてあるから、あの家は内野さんに決まってるじゃないか。それはお前の勘違いだろ。だいたい、通学路の途中の家の表札なんて、いちいち覚えてられるかよ。それはお前だってそうだろ?」
 全く確かにその通りだった。
 アケミも別に、その家の表札を暗記しているわけではない。だが、何か不自然なのだ。いつも傍を通ってるわけだが、確かあの家は内田さんだったような気がする。しかし、現に表札には「内野」と書かれていた。

 やがて二人はコンビニに入った。
 いつものコンビニだった。セブインイレブンだ。
 二人が、このコンビニに寄り道するのは、ほとんど日課のようなものだった。特に買うものが無くても、週刊誌などをここで立ち読みする。
 だが、アケミは、このコンビニが、やはり不自然に感じられた。
 カップ麺やスナック菓子やペットボトル清涼飲用水の品揃えが、いつもと違うように見えるのだ。いや、「赤いきつね」とか「コカ・コーラ」とか「壮健美茶」とか、メジャーな商品はいつもと変わりなく置かれている。だが、それ以外の商品の品揃えがいつもと違うように見えるのだ。
 アケミは、新聞を見て、ちょっと目を疑った。
 そこに妙な見出しがあったのだ。
『ユニオン日本地区統制局発表』
 なに、これ?
 それは普通の「読売新聞」だった。それが「日本地区統制局」なんて、まるで聞いたことのない言葉が大見出しで印刷されていた。
 ここに至って、やっとミノルも異変に気づいたらしい。
「変だな。」
 ミノルが、こっちを見ている。アケミを呼ぶ合図だ。
 ミノルは漫画雑誌を立ち読みしている。「週刊少年ジャンプ」だ。
 アケミが近づくと、ミノルはその雑誌を手渡した。
 連載されている漫画が、どこかおかしいのだ。「こち亀」は載っているし、主な人気連載も載っている。だが、それ以外の漫画が、まるで見たことの無い作品ばかりなのだ。
「これ、週刊ジャンプよね? 何かの増刊号とか、そういうことは」
 ミノルは首を横に振った。
「それは無い無い。」
 ちょうどその時だったと思う。
 一人の小学生の女の子が、こちらへやって来たのだ。黄色い通学帽に赤いランドセルを背負っている。歩くたびに、お下げがプランプランと揺れていた。
 その子は、ミノルとアケミの前に立つと、にっこりと笑って言った。
「もう、逃げられないよ!」
 ミノルが何か言おうとしたが、その子は踵を返すように回れ右をすると、そのまま走ってコンビニから出て行ってしまった。その子は走りながらも、くすくす笑っていた。
「帰ろうか。」
 ミノルは不安げに行った。
 もちろん、アケミもすぐに同意した。
 
 店を出ると、アケミは奇妙なものを目にした。
 歩道の街路樹の上に、何かがある。最初は汚れた広告のビラか何かだと思ったのだが、よく見るとそれは蛾だった。やたら大きな蛾で、羽根をパタパタ動かしている。しかし、その大きさが半端じゃない。あきらかに人間の顔より大きいくらいだ。
 アケミはミノルの腕にしがみついた。
「ねえ、ミノル、あれ……」
「蛾だろ。」
「それは分かるんだけど、ちょっと大きすぎない?」
「世界最大の蛾は日本に棲息してるそうじゃないか、確かヨナクニサンだっけ?」
「それは沖縄のどこかの島にしかいないじゃないの?」
 それっきり、二人は黙りこんでしまった。
 アケミは、ますますミノルにしがみついたし、ミノルも腕をアケミに回してくれた。二人は寄り添いながら歩いて行った。
 そして、二人は陸橋の下へと歩いてゆく。
 薄暗いトンネルで、時おり横の車道を車が走る。そこを走る自動車も、どこか不自然で、特にナンバープレートの数字が、どことなくおかしい。数字の桁数が多すぎるように見えるのだ。
 陸橋の下部のコンクリートの壁には、スプレーで落書きがしてある。文字のレタリングなのだが、これがまた意味不明なのだ。母音や子音の位置がデタラメにしか見えないし、とても発音できそうにもない代物だ。
 また、アラビヤ文字と思われるものもあり、三角やら多角形やら、妙な幾何学模様もある。
 ひときわ目についたのが、「YOGTHOTTHTA」という名前と「HATSURLTAE」という名前だ。

 ここまでのアケミの話しを聞いて、フユミが呆れたように言った。
「そんなわけの分からない綴りを、よく覚えてるわね。」
 アケミも困惑の表情を浮かべた。
「そう、おかしいよね。でもどうしてなのか、私にも分からないの。」
 フユミも、ひどく困惑した。
「それにしても、どうしてそれが『名前』だって分かったわけ?」
 アケミは首を横に振った。
「分からない……」
 フユミは、手元のカフェオレを一口飲んだ。
「話し、続けて。」

 ともあれ、アケミとミノルは、そのまま陸橋から出た。
 ちょうどその時だった。
 いきなり、激しい突風が吹いたのだ。
 すると、ミノルはいきなり奇妙な行動に出た。
 ここで「演奏」を始めたのだ。
 激しい風に吹かれながら、電線が振動し、ヒューヒューとかん高い音をたてた。
 同時に、上空の遥か上のほうから、風のような鳥の鳴き声のような、あるいは女性の悲鳴のような声が響き渡った。
 そして、ミノルの演奏は、その音と同調し、共に合唱していた。
「ミノル、どうしたの? 何をしているの?」
 しかし、ミノルは答えない。
 顔に大量の汗を滴らせながら、激しく演奏をしていた。
 まさにトランス状態にでも陥ってるようだった。
 激しい風に煽られて、砂埃がたったかと思うと、それがアケミの顔に吹き付けられた。
 思わず、アケミは目をつむる。
 砂埃が目に入って、大量の涙が流れた。
 ハンカチをとりだして涙をぬぐうと、アケミはどうにか目を開けた。
 すると、ミノルの姿が消えていた。
「……ミノル!?」
 アケミは周囲を見回した。
 ミノルの姿はどこにも見当たらない。
 前方は見通しが良い。だが、ミノルの姿は見えない。
 おっかなびっくり、陸橋の下に戻ってみたが、やはりミノルの姿は見えなかった。
「ミノル、どこ?」
 アケミは半分、パニックを起こしかけていた。
 駄目、落ち着かなければ。
 ここでアケミは携帯を持っていたことを思い出した。
 携帯の示す時間を見て、彼女は仰天した。いきなり時間が3時間も進んでいたのだ。
 記憶が飛んだのだろうか?
 何かを見て、忘れたような気がする。何か妙なものが断片的に頭に浮かび上がった。十二本の出たり入ったりするナメクジの角? 万華鏡のような生き物? 生きている結晶? 
 アケミは首を激しく振って、余計な記憶を頭から追い払った。
 そして、すぐにミノルの番号を回す。
 ありがたいことに、呼び出し音がした。圏内に居るのは確かだ。
 そして、呼び出し音が5〜6回鳴ったところで、相手が出た。
 だが、その声を聞いてアケミは凍りついた。
「言ったでしょ、逃げられないよって。」
 小学生くらいの女の子の声だった。あのコンビニで出遭った子?
 アケミは反射的に大きな声をだしていた。
「あなた、誰? ミノルはどこ?」
「ミノルはこっちだよ。」
 その女の子は、くすくす笑っている。
「こっちって……」
「お前は、戻れたね。でも、唾はつけられたんだから、お前も逃げられないよ。」
「あなた、誰なの? ミノルをどうしたの!?」
「お前も、そのうち、こっちに来るよ。」
 ここで電話が、一方的に切られた。

 ここまで話すと、アケミは手が小刻みに震えだした。
 話しを聞いていたフユミも、その表情は困惑だけではなく、恐怖も混じり始めた。
「その女の子、本当にそんなことを言ったの?」
 アケミは震えながら、頷いた。
 ちょうどその時だった。
 いきなり、隣の丸テーブルに居た少年が、いきなり話しかけてきたのだ。
「ごめん、悪気はない。君たちの会話が偶然、ぼくの耳に入ってしまったんだ。」
 アケミとミユキは、息を呑んだ。
 その少年が、誰だかすぐに分かったからだ。
「白銀ツバメ先輩!」
 学園で彼の存在を知らない者は居ない。
 彼の存在はだいぶ前から知っていた。
 彼の写真をこっそり定期入れに入れている女子は、アケミ達のクラスにも何人かいる。
 中性的だが、それでいて同時に凛々しい雰囲気の顔。けっこうな長身でスタイルもいい。仕草も上品。とにかく、いい男なのだ。そこへもって成績優秀、スポーツ万能とくれば、目立つなというほうが無理な相談だ。
 「民俗学クラブ」の部長で、放課後はいつも窓枠に腰をかけ、熱心に読書をしている姿は、アケミもたびたび見ていた。
 フユミは、憧れの先輩を目にして、その表情は恐怖から、再び困惑に戻っている。
 そのツバメ先輩は、真剣な面差しでアケミに尋ねた。
「ミノル君の斬新な音楽表現というのは、もしかして口笛のことじゃないのかな?」
 アケミの顔に驚愕の色が広がった。
「ど、どうしてそれを?」
 ツバメ先輩は続けた。
「しかも、それは普通の口笛じゃない。二重奏ができる、同時に2種類の音を出す口笛。違うかな?」
 アケミは、ますます驚愕した。
「そ、その通りです! ど、どうしてそれを?」
 ツバメ先輩は難しい顔をして言った。
「うそぶき。」
 アケミは、反射的に言った。
「嘘じゃありません!」
 ツバメ先輩は、首を横に振った。
「う、そ、ぶ、き。中国では、これを『嘯(しょう)』と呼んでいた。これは大事なことだ。ちょっと説明をしたほうが良さそうだな。君の身の安全のためにも。」
 ツバメさんは、こう切り出した。
「君達は、夜に口笛を吹くと蛇が来る、幽霊が出るという迷信を聞いたことがあるかい?」

 ミノル君が音楽を演奏した時に、蛾が集まって来たという話しを聞いて、すぐにピンときたよ。鱗翅目の昆虫やある種の鳥は、呪術の放つ波動に敏感に反応する性質があるからね。
 口笛は、呪術的なものと関わり合いがある。
 それには起源があるんだ。
 昔、中国には嘯(しょう)と呼ばれる独特の音楽があったんだ。これは口笛で曲を奏でるわけなんだけど、今ぼく達が日常でやってるそれよりも、遥かに複雑で高度な技術が必要とされるものだったんだ。
 何しろ、二重奏、三重奏が出来たといわれる。吹奏楽器でも、そこまで出来る物は限られる。これを人間の口だけでやるんだからね。
 これは日本にも伝わって、「うそ」と呼ばれた。鳥に鷽って言うのがいるけど、この鳥の鳴き声が「うそ」に似ていることから、そう呼ばれたとも言われているね。
 中国では、これに家元のようなものもあって、高度な技術は秘伝ともされた。そして、これの楽譜も残っている。
 しかし、中国においても現在はこれが出来る人はもう残っていない。清朝末期には消滅してしまった。モンゴル人やウイグル人の一部に部分的に残っているにすぎないし、それはかなり単純化されたものだと言われている。
 もちろん、日本でも当時そのままの物は残っていない。

「どうしてだと思う?」
 ツバメ先輩は、そう言ってアケミを見た。
 アケミはわけが分らなかった。この薀蓄と、ミノルの失踪と何の関係があるのだろう?
「どうしてなんですか?」
 アケミの代わりにフユミが尋ねた。
「禁圧されたからなんだよ。当時の権力者たちによってね。危険だ、という理由で。」
「危険?」
 アケミはここで身を乗り出さざるを得なかった。話しがやっと核心にリンクしたように思ったからだった。
「ああ、この『うそぶき』や嘯(しょう)は呪術に用いられたんだ。それも黒魔術的な目的で。この曲を奏でると悪霊を呼び出し、それを操ることができるという。夜に口笛を吹くと蛇が来るなんて迷信は、この呪術信仰の残滓なのさ。」
 ツバメ先輩は解説を続けた。

 これは全くの偶然だったんだろう。
 ミノル君は、この「うそぶき」の失われた技術を復元してしまった。しかも悪いことに、それは呼び出すことが出来ても、制御することまでは出来ないという不完全な形で。
 それでミノル君は、「うそぶき」によって呼び出したもの、ぼくは神魔(しんま)と呼んでるんだけどね。そいつに捕まってしまった。
 神魔にはピンキリがある。虫のようなものから、恐ろしい悪霊、人間を守ってくれる天使や神など色々だ。地球から遠く離れた外宇宙には途方もない規模のものも居るし、異次元の世界に居て、こちらに侵入しようとしているものもいる。
 君らが遭遇したのは異次元の存在だ。
 奴らが住んでいる異次元の世界は、人間の脳では理解することはおろか、体感することすら出来ない。
 仮にその世界に迷い込んでも、あまりに理解や体感の範疇外にあるので、記憶すら残らない。
 わずかに記憶が残ったとしても、それは支離滅裂なものになるだろう。

 それを聞いて、アケミは、錯乱状態にあったときの記憶を思い出した。
 十二本の出たり入ったりするナメクジの角、生きている結晶、一頭多身の怪物、万華鏡のような生物、空飛ぶ翼を生やしたイソギンチャク。
 「私達が迷い込んだ、あのおかしな町は何だったんですか?」
 アケミは尋ねた。
「奴らの張った網、罠のようなものだと思う。獲物を誘いこむためのね。ぼく達の世界のイミテーションだろう。ぼく達の世界を緻密にコピーしてはいるが、細部が異なる。」
 アケミは、あの悪魔のような女の子を思い出していた。
「あの女の子の妖怪は?」
「奴らの通信機のようなものだろう。」
 ツバメ先輩は続けた。

 いいかい? ここが大事なことなんだ。
 異次元に住む神魔は、自分達の方から、この世界に入り込むことはできない。
 こちらから、呼び出さない限りはね。
 神魔というのは、自分や眷属の「名前」に反応する。「名前」というのは、本質そのものなんだ。だから古今東西の魔術師は「名前」を使って、悪魔や天使を召喚し、使役する。非物質的な存在である神魔にとって、「名前」は肉体に相当すると思ってもいい。
 しかし、幸いなことに地球外の神魔や異次元の神魔の「名前」は、人間の発声器官では、発音することすら出来ないんだ。
 しかし……声帯によらない口笛は、彼らの名前を発音することが出来る。
 それで、本来こちらの世界に干渉できないはずの神魔を呼び出してしまったんだ。

 「でも」とアケミは反論した。
「あの女の子の妖怪は、私もいずれ連れてゆくと」
 ツバメ先輩は、きっぱりと答えた。
「コケ脅しさ。それは絶対にあり得ない。」
 そして彼は立ち上がり、ぐっと身を乗り出した。
「確認したいんだけど、ミノル君は、その口笛の吹き方を誰かに教えたりはしなかったかい?」
 アケミは首を横に振った。
「いいえ。誰にも教えてません。」
 ツバメ先輩は、眉をひそめた。
「では、録音は?」
 アケミは即答した。
「それもないです。最初の頃は、研究のためだとかで記録に取ってましたけど、全部捨ててしまいました。これは俺の企業秘密だって。バンドを組むまでは、絶対に秘密にするって。」
「本当だね?」
「本当です。」
「誓えるね?」
「何に誓えばいいか分かりませんけど、本当に間違いありません。」
 ツバメ先輩は、胸をなでおろしたようだった。そしてそのまま椅子に腰をおろした。
「ふう、良かった。もし録音の類があったのなら、最悪、彼の家に忍び込んででも破棄しなければならないところだった。」
「あの……」
 アケミは、ここで一番聞きたいことを尋ねようとした。
 だが、ツバメ先輩は、すっと立ち上がると、片手を挙げて、それを制した。
「すまない。ぼくが言えることは、ここまでだ。すくなくとも今のぼくには、忠告をすること以外は、何もしてあげることはできない。」
 それだけを言うと、ツバメ先輩は、そのまま伝票を片手にレジまで歩いて行ってしまった。そして勘定を済ませると、こちらを振り向きもせずに、店からも出て行ってしまった。
 後は、アケミとミユキが、二人だけで残された。
 二人は、顔を見合わせた。
 アケミは、しばらく黙っていたが、ゆっくりと口を開いた。
「さっきの話し、信じる? 」
 フユミは、こう答えるしかなかった。
「私に分かるわけないじゃない。」

 その晩、フユミの携帯の着メロが鳴った。アケミからだった。
「フユミ、1枚だけあったよ。」
「何が?」
「ミノルが録音を全部捨てたって言ったけど、DVD-Rを1枚だけ忘れていたの。私に聞いてくれって貸してくれたのがあって。」
 フユミはひどく胸騒ぎがした。
「ツバメ先輩の言ってたことを、どこまで信じたらいいのかは、私にも分からないけど、それは捨てたほうがいいと思うよ。」
「でも、これはミノルの形見よ。」
「まさかとは思うけど」
「私、異次元の妖怪と交渉してみる。ミノルを返してくれって。」
 フユミは嫌な予感が的中したと思った。
「再生するのはちょっと待って。私も付き合ってあげるから。」
「……う、うん、ありがとう。」
 フユミは携帯を切ると、すぐに外出用の服に着替えた。

 それから数時間後。
 消防署の専門家たちは、しきりに首をひねっていた。
 火の元が全く見当たらず、爆発の原因は全く謎だった。
 事故が起こる直前に、近隣の住民達から、ドブのような悪臭がたちこめていたとの報告があったことから、下水で発生したメタンガスに静電気の火花か何かが引火したためだと、発表された。しかし、その調査報告を行った消防署員は、それがこじつけだということは分かっていたし、また「蛾の大群」についての目撃談は、報告書には書かなかった。
 しかしもっと不思議なのは、アケミの死体が、瓦礫をいくら丹念にあさっても見つからなかったことである。両親は娘は生きていると硬く信じていて、捜索願いを出した。警察も、それを受理した。

 フユミは、瓦礫の中で、気絶しているところを救急車で運ばれた。
 外傷はほとんどなく、かすり傷程度だったが、「精神的ショック」はひどかった。
 目を覚ましているうちは、ひっきりなしにブツブツと支離滅裂なことをつぶやき続けた。
「七つ目のクラゲ」
「生きている虹」
「交互に大きくなったり、小さくなったり」
「砂漠を泳ぐ口が3つあるクジラ」
 そして、「信号機みたいな人間」
 彼女は回復するのに、3ヶ月もかかった。
 学校に復学はしたものの、性格はまるで別人のようになってしまって、友達付き合いもほとんどしなくなってしまった。
 そして、なぜか信号機をひどく怖がるようになった。
 たまに小声でブツブツつぶやくことも多い。
 たまたま同級生の一人が、それを聞き取った。
「大丈夫、大丈夫よ。あのDVD-Rは壊したんだから。ミノルが帰ってくることは二度とないはず……」

 ミノルとアケミは、いまだ行方不明のままである。