宿曜経


 「宿曜経」、すなわち「文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経」の成立については、まだはっきりとした結論は出ていない。
 一般的には、不空三蔵が741年に、インド、セイロンに留学。彼がセイロンでこの経を発見し、746年に中国へ持ち帰ったとされている。
 もともとインドでは、この時代からバビロニアから流れて来た占星術が根付き、独自の発展を遂げ、盛んに実践されていたらしい。必然的な結果として、仏教もこれを取り入れたというわけである。
 「宿曜経」の序文によると、不空三蔵は759年に、この経典を口頭で翻訳し、それを弟子が記述したという。これが「宿曜経」の下巻である。
 ところが、この口頭での翻訳が、やや混乱気味で実用上の不便を生じたため、764年に不空は天文学に通じた楊景風なる人物の助力を得て、編纂をしなおし、より詳しい注釈を行ったという。これが「宿曜経」上巻であるという。
 あるいは、下巻は不空がインドで学んで来た占星術の知識を後述筆記させたオリジナルの経典であり、これが下巻であるという。そして、楊景風が不空の教えを踏まえつつ注釈を付け、手を加え、編集したものが上巻であるとも言われている。
 そのため、下巻は雑然とはいているもののインド的な部分を多く含んでいるのに対し、上巻は体系化されている反面、中国色に染まっていると言われる。

 もともと中国には、不空三蔵が「宿曜経」をもたらす前から、仏教占星術は研究されていた。すでに3世紀には「摩登伽経」なる太陽、月、五惑星の運行について解説した経典が入って来ていた。また、唐代の始めには金剛智三蔵が「北斗七星念誦儀軌」を翻訳していたという。
 さらに、不空三蔵の先輩にあたり、密教や陰陽道への影響で知られる一行禅師も、「天文志」を完成させていた。
 しかし、より進んだ仏教占星術の知識が求められており、不空三蔵はそのニーズに答えたわけである。
 この「宿曜経」は、弘法大師こと空海によって日本へと伝えられた。これは、不空三蔵の死後わずか32年後のことであり、かなり早い時期に伝来していたことが分かる。

 その後、日本ではこうした占いを行う「宿曜道」なる体系が生まれることになる(別項で詳述予定)。
 しかし、こうした宿曜占星術は宮廷か、あるいは仏教寺院でのみ実践され、一般化されることは無かった。
 やがて貴族の力が衰えると、この技術は主に真言宗の寺院内部でのみ実践されることになる。これは秘密扱いされ、一般に広められることはなかった。
 そして、この技術は主に、儀式の日取りを決める等の宗教的な目的にのみ使用すべきであって、俗世の事柄をこれで占うのは、一種の冒涜行為である、という考え方すら生まれた。
 こうした傾向は現在も根強く、宿曜占星術を伝えている寺院では、いまだに秘密扱いしているところも多い。そこで用いられる占盤は、「宿曜占星術」の看板を掲げている一般の占い師のそれと比べると、非常に複雑で、だいぶ異なるものらしい。 
 仏教学の側からの研究も限られており、資料も数えるほどしかないのが現状である。

 現在、我々が「宿曜経」のテキストとして用いているのが、大蔵経に収録されている経典である。これは、やっと大正に入ってから、編纂されたものである。他に高野山大学等にもテキストが保存されているが、この大蔵経収録のものとは異本であるという。

「宿曜経」の上巻は七品から成っている。
一品では、二十七宿、七曜星、十二宮などの基礎が解説される。
二十七宿とは、月の運行を基にしている。月は一日で四足進み、二十七日かけて天球を一周する。その月の軌道を二十七等分し、その一つ一つに月が宿る明るい星があり、それを「宿」と名づけた。これが二十七宿である。これには、昴宿、畢宿、参宿、井宿……といった名称が与えられている。そして、昴宿は「おうし座」であり、参宿はオリオン座といったところである。
 さらに、これに「牛宿」を加えたものが、いわゆる二十八宿である。「牛宿」は毎日正午時にのみ出現する特殊な宿であり、月間を通して万物を統括する星と考えられた。
 しかし、この「牛宿」の扱いは、経典や流派によって異なり、これを用いない占法も多い。
 また、注意すべきは、各「宿」を通過する月の時間的長さは一定ではないということだ。先にも書いた通り、月は1日4足進み、二十七日かけて天を一周する。だから、月の軌道は全部で108足になる。しかし、各「宿」が持つ距離は、必ずしも4足とは限らない。例えば、星宿は4足、翼宿は1足、といった感じで一定ではない。
 七曜星とは、太陽と月に、当時発見されていた5つの惑星を加えたものである。太白星(金星)、歳星(木星)、鎮星(土星)と呼ばれるものである(後にこれに西洋占星術で言うところの竜頭、竜尾にあたる羅候星、計都星を加えて九曜星ともされた)。
 そして、十二宮である。これは、もちろん黄道十二宮のことである。宿曜占星術の起源がバビロニアにあり、西洋占星術と根を同じにしている証拠といえよう。これは、獅子宮、女宮、秤宮、弓宮、魚宮、羊宮、蟹宮……といった感じで、西洋占星術のそれと重なることが分かるであろう。
 しかし、勿論イコールではない。両者は隔絶した土地で、それぞれ独自の発展を遂げている。象意が全然違うのは勿論のこと、計算方法も違う。なにしろ、宿曜占星術の十二宮は太陰暦をもとに算出するのである。
二品では、「牛宿」を加えた二十八宿の詳細が語られる。
三品では、二十七宿、七曜星、十二宮の組み合わせによる吉凶が語られ、四品では主に七曜星と二十七宿との組み合わせの吉凶が語られる。
五品では、二十七宿が七曜星の影響を受けて、吉凶が逆転するという理論が語られる。
六品では、各日にちの吉凶判断方法が語られ、七品もそれに関わる技術等が語られる。
 なお、下巻は章の構成は異なるが、内容はほとんど上巻と同じである。

 さらに、宿曜占星術は、この「宿曜経」の他にも、いくつもの経典が存在し、用いられている。
 これがいわゆる「類経」であり、三国時代に翻訳された「摩登伽経」や「舎頭諫太子二十八宿経」、五胡十六国時代に翻訳された「神足経」、隋の時代に翻訳された「星宿経」などが知られている。
 こうしてみると、「宿曜経」は新しい時代の翻訳であることが分かるだろう。しかし、これは文化が成熟した頃に作られた、より完成度の高い技術とも言えるのである。

 「宿曜経」をひもといて見ると、戦争の勝敗を占う法のような記述もあり、オカルト嫌いだったり、潔癖症だったりする仏教者の中には、これを退ける人も居る。
 だが、これは空海や円珍を始めとした名だたる仏教者によって、日本にもたらされ、研究され、実践されてきたこともまた事実なのである。
 これもまた、仏教の広大無辺な哲学、思想の一部として、我々は崇敬の念でもって見るべきであろう。


「宿曜占法 1・2」 上住節子 大蔵出版
「破門殺」 羽田守快 脇長央 東洋書院
「密教占星法」 森田龍腰  臨川書店