ウィリアム・リリー


 ウィリアム・リリーは、1602年にイングランドのレスター市において小作農の子として生まれた。彼の一族は、かつては地主であったが、没落して小作農になったという。
 彼は当初、英国国教会の聖職者を目指して神学を学んだが、もともと貧しい家庭のこと、教育費が出せなくなり、断念する。1620年、彼が18歳の時である。
 そのまま彼はロンドンに出て、ライト氏という裕福だが教育の無い塩商人の秘書となる。
 ライト氏の妻は占星術の熱心な支持者で、リリーは彼女から占星術のイロハを学んだらしい。
 やがてライト氏の最初の妻が死去、氏は若い女性と再婚する。しかし、この後妻と氏の関係は、あまり良くなかったらしい。やがて、ライト氏は死去する。
 ここでリリーに運が向いてくる。彼は、この若い未亡人と恋に落ち、結婚する。
 そのままリリーは、ライト氏の会社を受け継ぎ、金持ちとなった。1627年のことである。
 彼が本格的に占星術を学ぶようになったのは、1632年のことである。彼はエヴァンス氏という占星術師の弟子となり、これを学んだ。
 さらに、金に余裕が出来たリリーは、当時貴重だった占星術書を多く購入し、さらにラテン語が堪能だった彼は、それらを読み漁り、知識を深めた。
 1633年、彼の妻が死去する。これによってリリーは、自由の身になり、塩の会社を売却すると、そのまま占星術師となった。そして、再婚する。
 彼が特に得意としたのは、質問が発せられた時のホロスコープでもって吉凶を占うという、いわゆるホラリー占星術であった。無論、彼は誕生時占星術はもちろん、マンデン占星術にも並々ならぬ才能を示した。特にマンデン占星術でもってイギリスの動乱やロンドンの災害も予言した。
 最初、リリーは主に中流階級の夫人達を顧客に占った。それが良く当たると評判になり、やがて国会議員や貴族の顧客もついた。
 商人の経験のあったリリーは、占いを金儲けに使うことに躊躇いは無かったようである。彼は金持ちの客からは、それなりの報酬を要求した。さらに、弟子には、秘伝を授ける代わりに、高額な授業料も要求した。こうして、リリーは占星術によって、さらに財産を増やした。
 同時に彼は占い師としての職業倫理を重視した。現在も多くの占星術関係の団体は、「クライアントの秘密厳守」等の倫理規定を定めているが、これはリリーの規定を参考にして作られていることも多い。
 1944年、リリーは「占星暦(アルマナク)」の出版を開始する。これが有名な「メルリヌス・アングリクスの暦」である。ちなみにメルリヌスとは、あのアーサー王物語に出てくる魔術師マーリンをラテン語風に呼んだ名前である。
 この暦は安価であったため大衆受けし、1年間の発行部数がなんと1万数千部という、当時にしては驚異的な大ベストセラーとなった。

 リリーは政治にも興味を持っていた。
 彼は当時、議会派と王党派の対立を占い、議会派に有利であると判断した。これは、彼の顧客に議会派が多かったこともあったが、「客観的に占っても」議会派に有利と判断したからであった。
 やがて、ピューリタン革命が起こると、リリーは革命派の勝利を予言した。議会派は、当時名高い占星術師だったリリーの予言を、プロパガンダに大いに利用した。
 やがて、リリーの予言は的中した。内乱は議会派の勝利に終わり、王制は廃止される。
 だが、革命軍の指導者オリヴァー・クロムウェルは、やがて冷酷な本性を剥き出しにし、独裁者となってゆく。
 リリーは敗北した王党派を庇うような行動を見せている。
 例えば彼は、密かにチャールス1世のために亡命する方法を占い、これを伝えている。しかし王は、これを無視し、一端革命軍に投降しながらも再び軍を起こした。その結果、王は革命派に捕らえられ、処刑されてしまう。
 またリリーは、王党派の占星術師で、ライバルだったジョージ・ウォートンが逮捕された時、コネを使って彼を釈放させた。
 このように、彼は議会派につきながらも、王党派の人々を庇うこともした。
 実は、リリーは、やがて王党派が勢力を盛り返し、王政復古が起こることを予言していた。やがて、この予測は的中する。リリーは、議会派として一時期逮捕されたが、彼に恩義を感じる王党派達のコネによって、無罪放免される。
 こうした一連の予言を、リリーは1648年頃から行っており、確かにこれは薄気味悪いほど的中している。そして、こうした政治的動乱の中をうまく泳ぎきったのである。
 これが占星術による予言だったのか、彼の抜群の保身術と合理的な予想の賜物だったのかは、分らない。だが、少なくともリリーは、全ては占星術のおかげであると言っている。
 1649年には、占星術協会が設立され、リリーもこれに参加した。
 さらに、1665年のロンドンのペスト流行と1666年のロンドン大火を予言し、これを的中させた。
 リリーは、これを予言していたので、ロンドンを早くから出て、田舎のサリー州に居を構えていた。
 そこで、医学を学び、1670年には正式な医師免許をも取得した。
 だが、1675年に脳卒中で倒れ、1677年には寝たきりになってしまう。しかし、彼は寝ながら口述筆記で「占星暦」の執筆を続け、1681年の死の直前まで、現役の占星術師として活動を続けた。

 リリーの生きた時代は、占星術の転換期の一つであった。
 この頃は、「占星暦」が大衆に広く浸透し、占星術師達が協会を設立し高い社会的地位を得た時期でもあった。
 だが、それと同時に、象牙の塔が占星術を締め出し始めた時期でもある。オックスフォード大学が占星術の講義を廃止したのが、リリーの死の1年前の1680年である。学者達にも、依然、占星術を支持する者も居たが、同時にはっきりと否定する者も現れ始めていた。
 占星術は大衆文化の地位を得た反面、「学問」の地位を失いつつあった時期でもあったのだ。

 リリーの最大の業績は、「キリスト教占星術」を執筆したことにある。この著書は1647年に出版された。
 この中で、リリーは占星術はキリスト教と矛盾するものではなく、それどころか両者の調和が必要であると説いた。そして、人間の運勢は十二宮の支配化にあることを強調した。この本の理論は、従来の占星術理論を網羅したものであり、それにリリーの研究でもって若干の補完を施したものである。
 しかし、この本は簡潔で分りやすい文章で書かれており、そのため実に2世紀にわたって、イギリスの占星術の教科書として用いられた。
 この本は、頻繁に引用され、現代の英語圏の近代占星術成立の土台の一つともなっている。
 しかし、現在の占星術研究家の間では、この本は過去のものであり、しばしば厳しい批判にも晒される。とは言うものの、今でもこの著から得られる物は多いと考えられてもいる。

 リリーは、見事な占星術書の蔵書を誇っていたが、彼の死後、友人のエライアス・アシュモール卿によって買い取られた。それはオックスフォード大学に寄贈され、今も現存する。
 このイライアス卿は、リリーに自伝を書くように薦めた人物でもあり、このおかげでリリーの詳しい生涯が判明している。


「占星術百科」 ジェームズ・R・ルイス 原書房
「占星術の世界」 山内雅夫 中公文庫