ブルワ・リットン

 西洋魔術において、しばしばオカルティズム思想は小説の形で発表されることもある。
 クロウリーの「月の子」や「麻薬常用者の日記」然り、フォーチュンの「タヴナー博士の秘密」や「月の女司祭」然り。
 否、小説がメインで、それにオカルティズム思想を織り込んだだけなのかもしれない。
 リットンは、オカルティストとしてより、小説家、詩人として有名なのだから。
 どちらが先であれ、読み手に取っては「1粒で2度おいしい」というものであろう。
 このリットンの「ザノーニ」や「不思議な物語」は、クロウリーやW・E・バトラーをはじめ多くの魔術師達によって、「魔術を志す者なら、呼んでおくべき文学作品」とされる。

 リットンの作品の中で、最もオカルティズム思想の色が濃いのが、1842年に発表された「ザノーニ」であろう。
 これはそのものずばり、薔薇十字思想をあつかった作品である。読んでみると、これは薔薇十字会が発行した文書だと言っても通じたかもしれない。秘儀伝授、死と再生、秘儀伝授に失敗した者、世界の変容(革命)などなど、薔薇十字思想の目白押しである。
 リットンによると、この作品は寓話として読まれるべきではない、という。しかし、物語が展開する裏に象徴的な意味が隠されていると言う。この作品には、全く別の調和の取れた2つの側面があるという。一つは「つくり話し」であり、読者は素直にこれを物語として楽しめばよい。もう一つは、隠された謎であり、これを解ける者のみが解けば良い、というわけだ。
 リットンはこの物語の登場人物達に、明確な象意を持たせている。そして、「あとがき」の中でこれを解説する。これが、その謎を解く鍵といった役どころか?
 もっとも、彼はこの謎なるものを、最後の「あとがき」の中で、事実上ばらしているので、興味のある方は読まれると良い。それは要するにフランス革命の実践者が夢見た「完全な自由」への解放を、錬金術における個人レベルでの精神の変容という形に置き換えて説明したものなのだ。
 薔薇十字思想における「世界革命」と「精神の変容」である。
 だが、もちろんこの作品に秘められているのは、そういう政治的なものだけではない。
 魔術に関心を持つ者なら、この作品それ自体が、イニシエーションの物語をそのまま表したものであることにも気づくであろう。個人の「精神の変容」と、国の「世界革命」は、重なり合い、同じ物を別次元で体現したものでもあるからだ。

 もう一つの注目すべき作品は、「不思議な物語」で、1859年から62年にかけて、ディケンズの主催する文学雑誌に連載したものである。
 これは、メスメル主義、唯物主義、錬金術などが入り混じった作品で、「ザノーニ」と比べると、やや雑な感じがしないでもないが、逆にエンターテイメント色の強い物語ともなっている。
 ……ちょっと気になるのは、「幽霊屋敷」でもそうだったが、リットンは実力のある魔術師は、人格に欠陥を抱えていることが多いと仄めかしていることだ。この作品には、それが如実に表れている。あの恐ろしい「自我のインフレーション」への警告であると受け止めておきたいところである。

エドワード・ジョージ・アール・ブルワ・リットンは、1803年にロンドンのベイカーストリートで生まれた。
 父は軍人で陸軍大佐で、ブルワーが4歳の時に死去。彼は母親によって育てられた。彼が文学の道に進むのは、この母親の影響であるという。ちなみに、彼は母親が死去するまでの名前はエドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワである。と言うのも、ブルワは父方の姓で、リットンは母方の姓である。
 彼は若いうちからバイロン風の詩を書き、歴史に興味を持ち、ルソーの啓蒙思想に夢中になった。
 ケンブリッジ大学に学び、文学を学んだ。
 彼が小説家としてデビューするのは、1827年からである。処女作は「フォークランド」。その後、彼は次々と作品を発表する。いずれもゴシック小説と呼ばれる分野で、怪奇趣味、猟奇趣味の強い作品ばかりであった。
 1934年には、純文学として評価の高い「ポンペイ最後の日」を発表する。
 また、同業者である多くの文豪達とも親交を結んだが、とくにチャールズ・ディケンズとの親交が有名である。
 
 彼は1927年にロジーナ・ドイル・ホイーラーという女性と結婚する。が、彼女は派手好きで短気な悪妻だったと言われる。彼女の実家の大反対を押し切った恋愛結婚であったにも関わらず関係はうまく行かず、36年に2年の別居を経て離婚する。
 
 彼は、作家をする傍ら、政治にも大きく関わっている。
 1831年に自由党から出馬、下院議員に当選。34年に党の広報活動で大きな成果を挙げ、当時の首相は彼に海軍省のポストを与えようとしたが、これを辞退した。
 41年に議員をやめる。その後、自由党との関係が悪化。保守党に接近し、1852年には保守党より出馬して当選する。1858年には、植民地相となり閣僚入りをする。この時、ブリティッシュ・コロンビアの植民地化に大きな功績をあげ、1866年に男爵位を贈られた。
 ちなみに、あの日本が建てた満州帝国を調査したリットン調査団の団長は、彼の息子である。

 リットンがオカルティズムに関心を持ったのは、ケンブリッジ大学に在学していた頃のことらしい。
 しかし、彼とオカルティズムとの関係は断片的な情報ばかりである。
 彼はフランクフルトの薔薇十字団系の結社に入団しており、アデプトの位階にあったらしい。さらに、一説によると、あの「マグス」の著者フランシス・バレットの弟子であったこともあったらしい。だが、これらについては確証はない。
 また、エリファス・レヴィとの親交もあったようだ。レヴィがロンドンのリージェント街で実践した、あの有名な交霊実験は、リットンと組んで行ったものだ。
 また、彼は心霊主義についても関心を持っていた。短編小説「幽霊屋敷」には、テーブル・ターニングに関する記述がある。実際彼は1855年に、有名な霊媒のダニエル・ダングラス・ホームを自宅に招いている。しかし、すぐに彼はオカルティストらしく、後に心霊主義を否定している。
 さらに、あの英国薔薇十字協会の名簿にも彼の名前があるらしい。
 ともあれ、リットンがメスメリズムや錬金術、そして薔薇十字思想に関わっていたことは間違い無い。
 これらの「ザノーニ」と「不思議な物語」が、その動かぬ証拠であろう。


 「ザノーニ」 ブルワ・リットン 国書刊行会
 「不思議な物語」 ブルワ・リットン 国書刊行会