テンプル騎士団の壊滅


 1307年10月13日、フランス全土のテンプル騎士団の支部が一斉に捜査され、総長のジャック・ド・モレー以下3000人のテンプル騎士達が、この同じ日に逮捕されたのである。
 これは、当時としては、おそろしく用意周到な計画的な逮捕劇であった。
 この計画を命令したのが、当時のフランス国王フィリップ4世美男王である。
 そして、王の右腕として、実際に作戦を練り、この計画を実行に移したのが、宰相ギヨーム・ド・ノガレである。
 フィリップ4世が、テンプル騎士団を潰そうとした理由は、騎士団が保有する莫大な財産狙いだったと見て間違い無い。

 テンプル騎士団は1291年のエルサレム王国の陥落によって、エルサレム巡礼者の保護という、本来の役割を失ってしまった。しかし、その巨大な組織はヨーロッパにおいて存続し続けた。
 騎士団は税金の免除という特権を持っていた。
 さらに、騎士団は金融業にも手を染めていた。最初は、巡礼者が旅先で金銭に困った時の援助から始まったことだ。巡礼者は、旅に出る前に地元のテンプル騎士団の支部に行って、自分の財産を預ける。そして、証文を貰う。旅先で急に金が必要になった時は、その証文を旅先にある騎士団の支部に持っていけば、現地で金を調達できるというわけだ。
 また、普通の修道院同様、寄付や寄進も受ける(しかも、税金免除で)。
 こうしたことをしているうちに、騎士団は、とうとう本当の金融業を行うようになって行くのである。
 彼らは十字軍の将校や、貴族、国王相手に金を貸したり、融資を行うようになる。
 ことに、エルサレム陥落後に騎士団が本部を置いたフランス王室との関係は密接であった。
 騎士団は、フランスの国庫の管理を行うまでに至ったのである。
 とは言うものの、フランス王室は国の金庫の全てをテンプル騎士団に管理させていたわけではない。ルーブル宮に、行政用のもう一つの金庫を別に置いていた。しかし、敗戦による経済危機がフランスを襲うと、フランスの国庫は、テンプル騎士団の管理するそれに統合されてしまう。そして、税金の取立てまでもを騎士団が行うまでになるのである。
 しかし、先の逮捕劇が起こるのは、そのわずか4年後のことである。

 本当のところ、フランス政府とテンプル騎士団との財政関係がどのようなものだったのかは、歴史学者達の間でも意見が分かれ、未だに謎である。何しろ、どちらが債務者で、どちらが債権者なのか、それすら分かっていないのである。騎士達が逮捕された時、帳簿の殆どが、なぜか「行方不明」になってしまったからだ。
 フィリップ4世は、騎士団からの借金を踏み倒そうとしたのであろうか? 国庫を騎士団から取り戻そうとしたのであろうか? はたまた、単に騎士団の溜め込んだ金を強奪することだったのか?

 それはともかくも、フィリップ4世の出した騎士団の罪状は、端から見ても、でっち上げは見え見えだった。
 このフィリップ4世と宰相ノガレのコンビは、すでに1306年に、国内のユダヤ人相手にも同じようなことをしている。このコンビはユダヤ人達を追放し、彼らの財産を奪い取ることに成功している。
 今回も同じ手口で、「異端」の罪だ。
 曰く、騎士団のイニシエーションでは、キリストを三度否定し、十字架に唾を吐きかける。その後、臍と唇と背骨の下部にキスを受け、バフォメットの偶像を拝み、その偶像の元で聖別された紐をまとい、全裸になって男色に身を任す……。
 このでっちあげの証言が、後にテンプル騎士団秘教結社説の材料の一部に利用されたのは、皮肉な話しだ。

 当時のローマ教皇クレメンス5世は、最初はテンプル騎士団を救おうとした。
 そして、その努力は続けられた。
 教皇は、フランスでの事件を耳にすると、ただちに教皇領のテンプル騎士達に庇護を約束する。そして、教皇直属の組織であるテンプル騎士団を勝手に逮捕・財産没収するのはけしからん、と非難した。
 しかし、フィリップ4世からは、テンプル騎士団が異端であるという「動かぬ証拠」を送りつけられる。
 それは、「自白」だ。もちろん、拷問によって引き出された代物だ。この時の拷問は熾烈を極め、138人のうち36人が拷問によって殺された。
 とは言うものの、この拷問を行ったのは、王の息がかかっているとは言え、教会の組織である「異端審問官」達である。
 また、クレメンス5世は。最初のアビニョン捕囚の教皇であり、フランス国王には頭が上がらない立場にあった。
 やむなく教皇は、「テンプル騎士団の異端の証拠があがったので、テンプル騎士団を取り締まれ」と言う教書を、各国の王達に出さざるを得なくなる。
 しかし、幸いなことに、多くの国はこの教書には従わなかった。ことにイギリス王に至っては、「これは騎士団の財産強奪目当ての見え見えの陰謀だ。こんなのに強力しないように」という手紙を各国の王達に出している。
 おかげで、フランス以外のテンプル騎士達の殆どは、破滅から免れた。 

 一方、教皇は、フィリップ4世に、異端の罪を裁くのは教会の仕事であるから、後は自分にまかせろ。テンプル騎士達の身柄と財産を、教皇庁に渡せ、と要求した。そして、異端審問所から騎士団の捜査権を取り上げ、自ら宗教裁判を行うと正式に宣言する。
 早い話し、裁判をやり直して、騎士団を救おうという作戦だ。
 これに応じるように、騎士団の総長ジャック・ド・モレーは、とらわれの仲間達に、教皇の前では自白を取り消すように、という回覧文書を送っている。
 フィリップ4世は、教皇に対し、身柄は引き渡すが財産は渡さないと応える。
 さらに、盗人猛々しいというか、「教皇は騎士団の財産目当てで、こんな要求を出してきた」と宣伝する。
 
 やがて、教皇の元に送られてきた騎士達は、いずれも下っ端の者ばかりで、ろくな裁判も出来ない。
 教皇は、幹部クラスの騎士達を寄越すように要求したが、フィリップ4世は、幹部騎士達の健康状態が悪いことを理由に寄越さない。彼らの身柄は、フィリップ4世によって、がっちりと抑えられていたのだ。
 仕方なく、教皇は枢機卿を派遣して、調査を行う。
 しかし、それはフィリップ4世の家来の立会いのもとで行われた。さらに、取調べには、王の息のかかった異端審問官も加わった。彼らは、「自白を取り消すと、「再堕落」というさらに重い罪に問われ、火炙りになるぞ」と脅した。
 さらに、マリニー大司教なるフィリップ4世の手下の聖職者が、これらの裁判を取り仕切った。
 こんな状態で、彼らが自白を取り消すことなど、出来るわけがない。
 中級幹部や平の騎士達は、自白を取り消さなかった。

 しかし、総長ジャック・ド・モレーは、自白を取り消した。そして、拷問のインチキぶりを暴露し、無実を主張した。
 これが連鎖反応となって、自白を取り消す動きも出始める。
 さらには、弁護団も結成された。
 しかし、判決は「自白を取り消すのは、「再堕落」であり、より重い罪」であるとし、54人に死刑判決が下る。
 自白を取り消さなかった者は、悔い改めたとし、釈放された。

 教皇は、すでにテンプル騎士団を救うことをあきらめていた。
 1311年、ヴィエンヌ公会議を開く。テンプル騎士団の処遇を決めるためだ。
 そこに集まった司教達は、フィリップ4世の圧力に関係ない者の比率が多かった。そのため、この裁判のインチキぶりを指摘し、判決の根拠を求め、騎士達に自己弁護をさせるべき、と採決した。
 しかし、教皇にはどうすることも出来なった。
 それでも、教皇は騎士団の財産を手に入れることだけは、最後まで執着した……。

 フィリップ4世は、ついに教皇庁に直接ねじ込んでくる。
 「もう騎士団が異端であることは明白。早く騎士団の廃絶を命じる教書を書くべきである」と。
 1312年、この圧力に耐え切れず、教皇はついに「教会の利益のために」、テンプル騎士団を、正式に廃絶する教書を発行する。
 続いて、テンプル騎士団の財産は、別の騎士修道会である聖ヨハネ騎士団の管理下に置くことを命じる教書を出す。
 もともと、教皇庁には、この事件が起こるだいぶ前から、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団の合体を主張する勢力があり、これが大きかったとも言える。
 フランス以外の、逮捕の難を逃れたテンプル騎士達も、一斉に聖ヨハネ騎士団へと入った。
 こうして、テンプル騎士団は、完全に解体されたのだった。

 教皇は、委員会を設置し、再調査を行わせていた。騎士団の最高幹部達は、いったん死刑の判決を受けてはいた。しかし、再調査その他により、最終判決は「終身刑」であった。
 しかし、ここで劇的な事件が起こる。
 判決が下ると同時に、突如、総長のジャック・ド・モレーが立ち上がり、堂々と無実を主張したのである!! 
 大幹部のジョフロワ・ド・シャルネーも後に続いた。
 驚く群集の前で、彼は、はっつきりとした口調で言った。
「我々は無実である。騎士団は神聖で、規則はカトリックの教義に則ったものだ。我々の唯一の罪は、拷問に耐えかねて嘘の自白をしてしまったことだけである!!」
 二人は、ただちに「再堕落」の罪で、火あぶりを宣告された。

 1314年。二人は、火あぶりとなった。
 なるべく苦しんで死ぬようにと、火はゆっくりと燃やされた。
 しかし、二人は最後まで、神を称え、騎士団の神聖さを主張し、無実を叫び続けた。
 いまわの際に、異端者が、こんなことをするのだろうか?
 それを見ていた群集達は、口々に騎士団の無実を叫びはじめた。彼らは神を称え、騎士団の無実を信じると叫び、フィリップ4世を呪った。そして、火が消えると、彼らは火刑台へと殺到した。警備兵を押し倒し、我先にと灰の中から遺骨を拾おうとしたのである。そう、「殉教者の聖遺物」を手に入れようと……。

 その後、人々を驚愕させることが起こる。
 この処刑から、わずか1ヵ月後に、教皇クレメンス5世が死去。
 わずか9ヵ月後にフィリップ4世も死去するのである。

 ここで、有名な伝説がある。
 ジャック・ド・モレーは、火に包まれながら、「1年以内に、教皇とフィリップ4世と宰相ノガレ、そしてマリニーを、神の法廷に呼び出してやるぞ!」と叫んだという。
 それから1ヶ月後、教皇は不思議な病気で悶死。
 フィリップ4世は、森で狩をしているときに、靄の中から頭に光輝く十字架を付けた不思議な鹿を見た。その直後、体が麻痺して落馬し、その数日後に死んだ。
 フィリップ4世の手下となった宰相ノガレは、悪臭を放つ奇怪な蝋燭の側で失神しているところを発見され、その翌日に死んだ。
 フィリップ4世のもとでインチキ宗教裁判をしたマリニー大司教は汚職がばれて、絞首刑となった……。

 しかし、これは伝説にすぎない、と歴史学者達は主張している。
 たしかに、教皇とフィリップ4世の急死は事実だ。マリニーが汚職がばれて絞首刑となったのも事実である。
 だが、歴代の教皇やフランス王達の悲惨な生涯を見てみると、この二人は安らかな死を迎えた部類に入るという。
 あと、宰相ノガレの死は、ジャック・ド・モレーが火炙りになる1年前の1313年である。
 そして、モレーが「神の法廷に呼び出してやる」と言ったという記録は無い。後世に作られた話しである。

 だが、それにしても、教皇とフィリップ4世の急死、マリニーの惨めな末路は、あまりに出来すぎている。
 この一連の事件を目撃した無名のギャラリー達は、この裁判のインチキぶりに気づいていた。
 「ひでえことしやがる」と思っても、うかつに口に出すわけにはいかない。
 そんな中、こうした噂が生まれていったのだろう。祟りの一つもなければ、この世の正義はどこへ行った? というわけだ。私は、こうした伝説は、伝説として大切に語り継いで行きたいと思うのだが、これは感傷的すぎるであろうか?


「テンプル騎士団」 レジーヌ・ベルヌー 白水社
「テンプル騎士団の謎」 レジーヌ・ベルヌー 創元社
「中世騎士道事典」 グラント・オーデン 原書房