ロバート・フラッド


 イギリスにおいて、ジョン・ディーがエリザベス朝最大の魔術師なら、ロバート・フラッドはさしづめジェームズ朝最大の魔術師と言えるかもしれない。同時に彼は最後のルネサンス型魔術師であったとも言われる。
 彼はパラケルスス派の医者であり、同時に彼の思想は、ルネサンスの自然魔術とカバラ、パラケルスス流の錬金術とジョン・ディーの強い影響を受けている。
 同時に彼は実験を重視する科学者でもあり、一説には蒸気機関の最初の発明者とも言われる。
 ともあれ、彼は魔術と科学が混合した時代を生きた偉大な思想家の一人である。

 ロバート・フラッド、またはデ・フィルクルスは1574年にイギリスはケントにて、地主の息子として生を受ける。17歳にしてオックスフォード大学に入学し、しばらく大学で学ぶも、そのままヨーロッパ大陸へと渡り、数カ国を遍歴し多くのヘルメス主義者達と交流をもった。そして医学をおさめるために帰国し、1605年にオックスフォード大学を卒業した。その異端的な思想と傲慢な性格のため、少々時間がかかったが、1609年にはイギリス医師のエリートたるロンドン医師会の正式なメンバーとして認められた。さらに後年、オックスフォード大学医学部の顧問の一人になっている。
 ロンドンにて開業医となり、名医との評判を得て成功する。
 とはいうものの、彼の医学は今日の我々から見れば、神秘主義と宗教、自然科学の玉石混交である。彼はパラケルススの錬金術医学の信望者であった。彼は全ての病気は原罪から生じ、悪霊によって引き起こされる。したがって、天使の力を借りることによって治療が可能と考えた。
 例えば、熱病は悪臭を放つ東風に乗って到来する邪悪な天使(悪霊)サマエルによって引き起こされる。それに対抗するのはミカエルとその眷属たちである。その力を借りればよい。
 したがって、フラッドは病気の治療に薬草や鉱石を使用する一方で、こうした天使の力を借りる祈りや呪文もまた有効であると考えた。
 そういった意味では、彼はジョン・ディーの系列を継ぐ魔術師でもあった。

 彼は多くの著書をものにしており、その後のヘルメス哲学その他に多くの影響を及ぼした。
 彼の大きなテーマは、唯心論と唯物論の哲学的な統合であった。
 例えば、彼の死後に発行された「モーセ哲学」では、彼独自の創造の三原理を確立させており、第一質料に「闇」、第二物質に「水」、最後の生命に「光」を照応させた。これは近代ヘルメス哲学に大きな影響をあたえることになる。

 彼の代表作とされる著書の一つが「両宇宙誌」であり、ドイツのオッペンハイムの出版社より、1617年から発行が開始される。
 この大著は、その名の通りマクロコスモスとミクロコスモスとを扱った著書である。そして、ジョン・ディーの思想の強い影響下にあると言われる。
 これは2巻からなり、1巻は「大宇宙について」であり、2巻は「小宇宙について」である。
 1巻の「大宇宙について」は、2部構成となっており、第1部は大宇宙の形而上学的な考察を扱ったものであり、1617年に出ている。第2部は「大宇宙技術誌」と題され、1618年に出ている。この第2部は一種の記憶術を扱ったものであり、もっとも注目すべき著書とされる。1章においては数学が語られ、さらに数学と軍事技術、音楽、占星術、土占術との関わりが論じられる。2章では音楽、3章においては土地の測量技術、4章では光学、5章では比例と遠近画法、6章では軍事技術、7章では運動の力学、8章では時間測定、9章は宇宙論と地理、10章では占星術、11章では土占術が語られる。
 この魔術と科学の玉石混交的な内容は、まさにフラッドの哲学をあらわしてといえる。というより、これは当時の薔薇十字思想の典型的な立場であった。
 もともとフラッドはピタゴラス主義の音楽理論からオカルティズム思想に入り、錬金術へと入って行った。
 彼は、この著書において、宇宙(大宇宙)と人間(小宇宙)との関係を考察しているのだが、両者を結ぶ神聖な知識を、「調和(ハルモニア)」で説明しようとした。
 宇宙は人間を巨大化させたものであり、人間は逆に宇宙を縮小させたものである。ならば両者の関係は数学的に証明が可能であるに違いない。この数学的対応こそが「調和(ハルモニア)」であり、これを解く鍵が数学魔術であり、占星術でもあり、音楽理論でもある。彼の著書に出てくる建築技術や軍事などの一見、こうしたものとは関係なさそうに見える知識も、数学的な調和に基づいた知識であるわけで、こうした理論証明の一端となっているのである。
 2巻の「小宇宙について」も2部構成となっている。こちらは1619年に出版された。
 第一部が小宇宙の形而上学的な考察であり、第2部が「小宇宙誌」であり、先の「大宇宙」の巻と対応している。また、こちらは記憶術をも扱っている。
 記憶術について論じるにあたって、彼の著書は無視できない。

 また、彼は当時の薔薇十字運動にも加わった。
 彼は薔薇十字団の噂を聞くと2冊の著書を出した。薔薇十字団員との接触をはかるためである。
 一つは「薔薇十字の友愛団に対する簡単な弁論−それに対して浴びせかけられる数々の疑惑と汚名を洪水のように洗い流す書」であり、通称「弁論」である。これは1616年に出された。
 もう一つは「薔薇十字の結社のための弁論的論考」であり、通称「論考」である。こちらは1617年に出版された。
 「弁論」の内容は、まずは古代の叡智であるヘルメス・トリスメギストスを始めとした古代神学者への祈りで始まる。そして薔薇十字文書の「名声」と「告白」に賛成する。そして自分を入団させてくれるように懇願する。
 「論考」においては、前者と重なる部分もあるが、注目すべきは魔術の擁護を押し出してきていることであろう。魔術には正しいものと邪悪なものがある。正しい魔術の否定は自然哲学の否定につながり、得策ではない。薔薇十字の魔術は、正しい魔術である。正しい魔術とは、数学的な魔術、神聖な天使の力を呼び出す名前を用いたカバラ、占星術などである。
 さらにフラッドは言う。自然哲学、錬金術、医学は完璧ではない。なにより、それらの大本となる数学が完璧ではない。だからこそ、数学的な技術の改良が必要である。この数学的技術の改良計画こそが薔薇十字団が望んでいるものであり、先の薔薇十字文書の「名声」である、と考えた。
 ともあれ、彼が薔薇十字運動に強い関心を示し、最大限の賛辞を送った。そのため、彼は薔薇十字団員だったのではないか、という噂も流れた。
 また、彼はフリーメーソンの会員であったとも言われ、一説には薔薇十字思想にフリーメーソンの思想を最初に持ち込んだのは彼ではないか、という説もある(が、確証はない)。

 フラッドは、パラケルススのみならずアグリッパの影響も強く受けているが、性格的にもこの二人と通じるところもある。放浪癖、傲慢な性格、泥沼化した議論にあけくれる、といった所だ。彼には多くの論敵がいたが、フランスの修道士マラン・メルセンヌとの論争が有名であろう。
 だが、幸いなことに、彼はパラケルススやアグリッパよりは社会性があったし、ディーよりは運が良かった。それで、彼は何人もの王侯貴族の侍医となり、有力なパトロンを何人も持つ。そして、比較的成功者としての人生を送り、1637年に死去した。
 彼は非常に多産な著述家で、多くの著書が現存する。
 ともあれ、彼こそがイギリスにおける薔薇十字運動の大立者であり、ディーの後を継いだ近代魔術につながる思想の伝播者の一人であったことは間違いない。


「薔薇十字団」 クリストファ・マッキントッシュ 平凡社
「薔薇十字の覚醒」 フランシス・イエイツ 工作舎
「世界劇場」 フランシス・イエイツ 晶文社
「オカルティズム事典」 アンドレ・ナタフ 三交社
「世界神秘学事典」 荒俣宏 平河出版
「交響するイコン フラッドの神聖宇宙誌」 吉村正和 平凡社