ルドルフ・ゼボッテンドルフとトゥーレ協会


 グイド・フォン・リストアドルフ・ヨーゼフ・ランツと並ぶナチズムに影響を与えたオカルティストとして、ルドルフ・ゼボッテンドルフ男爵がいる。男爵とは言っても、これもリストやランツと同様、経歴詐称である。彼は貴族ではない。労働者階級の出身者であった。

 ゼボテンドルフ男爵。本名アダム・アルフレート・ルドルフ・グラウアーは1875年にドレスデン近郊のホイエルスヴェルダという町で生まれた。
 彼の父親は蒸気機関車の運転手で、息子を熟練工にするべく、工学の教育を受けさせようとした。しかし、グラウアーはそれを放棄して船乗りとなる。1898年のことである。
 そのまま、オーストラリア、カイロ、トルコのイスタンプールを放浪する。1900年に彼はいったん、トルコに落ち着く。そこでエンジニアとなるが、ここでオカルティズムと接触したらしい。彼はスーフィズム(イスラム教神秘主義)に夢中になり、ユダヤ人(!)と友人になり、彼の紹介で中東のフリーメーソンに入団した。
 ここで彼はバタクーシ派と呼ばれるイスラム教錬金術に魅了され、これの研究を行う。後に彼はこの時の研究成果を1924年に「古代トルコのフリーメーソンの行法」という本にまとめている。
 彼は1902年に、いったんドイツに帰国するが、何らかの詐欺事件を引き起こし逮捕される。その後、よくわからないまま再びトルコに戻ってしまった。
 1911年にはトルコ国籍を取得、1912年にはトルコ在住のドイツ貴族ゼポッテンドルフ男爵家の養子になったと主張した。これが事実かとなると、非常に眉唾である。だが、この時から彼はゼポッテンドルフ男爵を名乗るようになり、本物のゼポッテンドルフ家からも、男爵を名乗る了承は得ていたらしい。
 そして、1913年に彼はドイツに帰国する。

 彼はオカルティズムの分野で名をあげたそもそものきっかけは占星術であった。
 彼は当時のドイツの占星術の最大の団体、「ドイツ占星術協会」の機関紙の編集長となった。さらに彼は占星術の研究書を書き、これも高い評価を受けた。
 こうして彼は当時のドイツの占星術界の指導者の一人になっていた。
 また、ヨーガにも興味をよせ、これを実践、研究した。当然のごとく、神智学協会とも関係した。
 かのオカルト小説家のグスタフ・マイクリングとも親交があったらしい。
 ここまでは、普通のオカルティストだったといえる。

 おかしくなりだすのは、1916年のことである。
 ゼポッテンドルフは、ルーン文字に興味を示し、「ゲルマン教団」なるリストの信望者の団体に興味を示し、接近する。そこのリーダーのヘルマン・ポールという人物と知り合い、リストのアルマネンシャフトにはまり、反ユダヤ主義にも共鳴し、染まってしまう。
 この「ゲルマン協会」は、起源は1902年に遡る。テオドール・フリッチというユダヤ人を憎む差別主義者が、「ハンマー」とう言う極右雑誌を刊行していた。この雑誌には、かのランツも寄稿しており、この雑誌の読者たちが、1905年に「ハンマー会」を組織。これはドイツの各地に作られた。1912年にはフリッチの指導のもと、ドイツ中のハンマー会が集まって「帝国ハンマー同盟」を組織した。
 このハンマー同盟には、リストのアルマネン主義者も大挙して参加した。
 マグデブルクのハンマー会に、ヘルマン・ポールなる人物がいた。彼は、リストの信望者であったが、同時にフリーメーソンの影響を受けた人物で、イニシエーション儀式を重視した秘密結社の設立を望んでいた。やがて、彼はフリッチの許可を得たうえで、ハンマー会の内部にロッジを設立した。このメーソン風の秘密結社こそが「ゲルマン会」であった。
 ゲルマン会はリストの思想の強い影響下にあり、またランツの影響も強く、団員にはランツの雑誌「オースタラ」誌の購読が推奨された。
 その後、「ゲルマン教団」は1916年に2つに分裂し弱体化の危機に襲われた。
 この分裂のとき、ゼポッテンドルフは、あくまでヘルマン・ポールの側に付き、精力的な団員となり、信望者を集め、これを立て直した。この功績が認められ、1917年にはパヴァリアの支部長に就任した。そして、1918年には機関紙「ルーン」の刊行を始める。
 この「ゲルマン教団」こそが、後の「国家社会主義者労働党」を生み出すことになる「トゥーレ協会」となるのである。
 「ゲルマン教団」にとって、この「トゥーレ協会」の名称は、左翼陣営からの攻撃をかわすための隠れ蓑的な名称であった。しかし、後々、こちらの名称の方が有名になる。
 トゥーレとは、古代ギリシャ人が、極北にあると考えた伝説の島である。リストやランツはアーリア・ドイツ民族の発祥を、こうした伝説的な極北に求めたが、トゥーレはまさにそれをさしているのである。
 この「トゥーレ協会」には、ナチスと関わりあいのある人物が何人も出入りをしていた。ディートリッヒ・エッカルト、ゴットフリート・フェーダー、そしてかのアルフレッド・ローゼンベルクである。
 ゼポッテンドルフの役割は、ランツやリストの思想をナチスに伝える一種の橋渡しを行ったことであろう。
 「トゥーレ協会」が、ナチの誕生に大きな影響を与えたことは間違いない。しかし、この協会はナチズムとオカルトを結び付けたがる人によって、過大評価もされがちである。
 実際のところ、ヒットラーは次第にトゥーレ協会を軽蔑するようになり、やがて協会関係者をナチスから「排除するようになる。1930年代に入ると、この団体は弾圧すら受けるようになる。ゼポッテンドルフ自身も、ナチスの源流はトゥーレ協会にあると回想録の中で書いたことが問題とされ、本は発禁、彼自身も逮捕されてしまった。

 ともあれ、ゼポッテンドルフは1919年に、トゥーレ協会を退会する。これは会員名簿の流出などの失策の責任を取ったものであるが、興味の中心が政治から占星術に移ったというのもあったのかもしれない。
 ちょうどこの頃、彼の占星術関係の活動が活発化するからである。

 しかし、政治への興味が完全に失われたわけでもない。
 彼は1923年にスイスへ行き、1925年にはトルコに向かう。さらに1929年から2年ほど新大陸を回り、1933年にドイツに帰国する。
 彼は1934年に「ヒトラー登場以前」という回想録を出版する。これは、まさにトゥーレ協会とナチスとの関係を公開したものであるが、これが上記の筆禍事件を引き起こすのである。
 ドイツの主権を握ったナチスは、トゥーレ協会のようなオカルト結社と関係があったことは、過去の汚点とみなしていた。
 そのため、この本は発禁。ゼポッテンドルフも逮捕されてしまうわけである。
 彼はすぐに釈放されたが、そのままトルコに舞い戻る。そして、トルコのドイツ情報局で働いていた。
 1945年、ドイツ降伏の知らせを聞くと、彼は海に身を投げ、自殺した。


「聖別された肉体」 横山茂雄著 白馬書房
「北極の神秘主義」 松田和也訳 ジョスリン・ゴドウィン著 工作舎
「99万年の叡智」 荒俣宏著 平凡社