水野南北  〜人相術と粗食開運法〜


 水野南北は、1757年に生を受ける。少年時代は、かなり荒れた生活を送っていたらしい。十歳にして酒を飲み始め、チンピラ仲間に入り、古証文を使った恐喝で小金を稼ぐようなことをしていたらしい。役人に捕まり、入牢したこともある。

 彼がこうしたヤクザ家業から足を洗うきっかけとなったのが、とある不思議な老僧との出会いだった。
「お主、死相が出ている。もって1年の命だろう。」
 偶然街で会った僧に、いきなりこんな不吉な予言をされたのである。
 出鱈目を言うなと思った彼だったが、不思議とその僧の言ってることが真実であるように思われた。
 これをきっかけに彼は、自分の人生を真面目に考えるようになった。このままチンピラのまま死ぬのは御免だ。死ぬときは清い心身を持って死にたい。そう思った彼は、そのまま禅寺へ出かけてゆき、出家を願い出る。
 しかし、僧になるには、いろいろと手続きが要る。寺の住職は、「1年間、麦と大豆以外口にしない生活が出来たら、出家させてやる」と言って、追い返した。寺としては、面倒な奴を追い返すための難題のつもりだったのだが、南北はそれを間に受けて、本当に麦と大豆しか食わない生活を続けた。生活態度も改めて、やくざ業からも足を洗った。
 そして、あの老僧に死を予言されてから1年が過ぎた。それから、また何日がも過ぎたが、死なないどころか健康そのもの。
 「あの坊主、ふかしやがった」と腹を立てていると、またもや偶然、あの僧にばったりと出会ってしまう。
 この時、びっくりしたのは、僧の方だった。
「何としたことか! 死相が、まるで嘘のように消えてしまってるぞ!! お主、何か変わったことをしなかったか?」
 と問いただしてきた。
 南北は、出家を考え、麦と大豆のみの生活をしていることを話した。
「それだ!」と僧は言う。「お主のその清廉潔白な生活が、お主の運を変えたのだ。」
 ・・・このエピソードが、南北が観相学(人相術)に興味を持ったきっかけだったという。
 これは、南北の思想を物語るエピソードとも言える。
 南北の考えでは、「運命は自ら切り開くもの」である。「占いとは、決定した運を知るためのものではない。運を切り開くための技術である。」
 そう、凶とでたら、その悪運を避ける努力をするべきだし、それは充分可能である。占いとは、そのためにあるのだ。

 南北は、その僧の弟子となる(彼は和漢の学問に通じた真言宗の学僧だった)。その学僧から、人相術と医学の手ほどきを受ける。
 その僧の教えでは、「観相学(人相術)を極めるのは、書物だけでは駄目だ。可能な限り、多くの人間の人相を観察し、その人の人生を知り、これを応用して初めて人相術は的中するのだ。」
 南北は、この教えを忠実に守る。
 まず、人の顔を観察するのに最高なのは床屋であろう、と言うわけで髪結い職人に弟子入りすること3年間。また、観相学が扱うのは顔だけではなく、身体全身である。そこで、風呂屋で働くこと3年。さらに、人間の骨格について知るために火葬場で働くこと3年。
 こうして彼は、観相学(人相術)の膨大なデータを蓄えると、今度は途方もない長旅に出るのである。

 この長旅でも、彼は興味深い経験をする。
 東北を旅した時、たまたま宿泊した町の遊女と懇ろになった。
 ある日、鏡を見て彼は仰天する。なんと自分の顔に「女が原因で身を滅ぼす相」が出ていたのだ。
 彼は大慌てて宿を引き払い、その町から逃げ出した。そして、郊外に出てから水に写った自分の顔を見ると、先の死相が見事に消滅していたのである。
 この経験は、「占いとは、自ら運命を切り開くための技術である」という確信をさらに高めることとなったのである。

 その後、彼は江戸に戻ると、観相見(人相占い師)を開業する。
 彼の百発百中の占いは、大評判となる。
 奉行所の依頼に応じて迷宮入りしかけていた事件を解決したこともある。
 朝廷から従五位の称号を贈られたこともある。
 こうして彼は、観相学の大家として、その名を不動のものにしたのである。

 彼の観相学は、これまでの人相術に様々な革命をもたらした。
 一つとして、彼は書物に書かれていることはあくまで基礎であり、これだけでは駄目だ。これを完成させるにはデータを集め、経験が必要であるという考えを普及させたこと。 
 観相を行う時は、顔だけではなく全身を観なければならない、ということ(彼は、ヘアのデータを集めるために吉原にも行った。そこで、彼は金を払うと、紙と筆を手にしてデータだけを集めると、遊ばずそのまま帰る、ということを繰り返し、「変な客」と噂されたこともある。昔、ヘア占いなんてのが流行ったが、実はこれは南北の本からの引用である)。
 そして、占いとは、「自ら運を切り開くための技術である」という考えを広めたこと、などである。

 晩年になると、彼は「食」に着目するようになる。
 彼は、人間の運命を最も大きく左右する要因は、「食事」であると考えた。
 「食事」の仕方によって、人の運は良くもなるし悪くもなる。それはつまり、「食事」に気を付けていれば、運を開き、健康になり、長生きも可能である。そもそも、若き日の南北の命を救ったのは、麦と大豆の食生活ではなかったのか?

 それでは、どのような食事が、人を幸福にするのか?
 それは「粗食」である。晩年、熱心な仏教徒になった南北は、精進料理を勧める。
 美食を避け、腹は常に八部目にする。決まった時間に決まった量を食べること。大酒飲みなど、もっての他。
 しかし、南北の勧める「粗食」は、吝嗇的な粗食とは区別もしなければならない。食事を抜くようなことをしてはならない、身分の高い人間が安物ばかり食べるのは逆効果、身の程に合ったものを食べること・・・。
 こうした食事の方法については、「修身録」という全4巻の本に詳しくまとめられている。

  彼は1835年に没した。
 高弟として有名な観相家は、小西喜兵衛が居る。
 (南北の観相学の知識や秘伝が失われずに済んだのは、彼を始めとした弟子達の業績によるところが大きい。)
 南北は死にあたって、「もし、「南北流」などという看板を上げる占い師が居たら、それは自分とは無関係と心得よ」と遺言した。
 南北は何冊もの著書を著し、多くの弟子を取ったが、どんな高弟にも「南北流」を名乗ることは一切ゆるさなかったのである。


「南北相法」 水野南北 緑書房
「相法極意修身録」 水野南北 たまいらぼ社