エリファス・レヴィ登場


 エリファス・レディは、近世の魔術(トルテミウスやアグリッパやディー)と、GD以降の近代の魔術の中間に位置するオカルティストと言えよう。
 そして、彼なくして近代魔術は絶対に有り得ない。
 彼は何冊もの魔術書を残した。いずれも英訳され、「大いなる秘密」、「カバラの神秘」などのマイナーな小冊子もWEISER社から出されている。
 しかし、彼の著書で重要なものは、やはり「高等魔術の教理と祭儀」、「魔術の歴史」、「大いなる神秘の鍵」の3部作であろう。この三著があったからこそ、現代の魔術が存在する、とさえ言える(前二著は邦訳あり)。
 しかし、W・E・バトラーがいみじくも言った通り、これらの著書は「その事実的記述というより、むしろ探究心に富む人々に与える刺激ゆえに評価される」と言うのが、現代の実践派魔術師の正直な評価であろう。
 無論、レヴィの著書には、例えば生命の樹とタロットの照応など、実践面においても、大きな業績が数多く散見される。

 エリファス・レヴィ、本名アルフォンス・ルイ・コンスタンは、1810年にパリの貧しい靴職人の息子として生まれた。
 病気がちで、一人で物思いにふける孤独な少年だったという。そして、霊的な感受性も強かったらしい。12歳の時、最初の聖体拝受式を受けたとき、一種の幻視体験もしたらしい。
 頭が良く信仰深く、心の優しい少年で、聖職者の道を選んだ。15歳の時に聖ニコラ・デュ・シャルドネ神学校に入学する。そこの校長フレール・コロンナ師に出会うわけだが、これが彼が魔術に興味を持つ一つのきっかけだったと思われる。フレール師はメスメル主義者で、「動物磁気審問」という著書まで書いている。そして、フィオーレのヨアキムの影響を受けた終末論を信じ、キリスト者でありながら輪廻転生も信じていたらしい。
 レヴィは、ここで哲学の他、ヘブライ語の基礎も学び、後に打ちたてる魔術的カバラの下地を作った。
 ここを卒業後、彼はさらに神学を学ぶために1830年にイシ神学校に進み、1832年にはパリの名門、聖シュルビス神学校に入学した。
 ここで彼は、聖シュルビス会の創設者オリエ師の著書に親しみ、生涯に渡ってオリエ師の思想の影響を受けることになる。それは、「熱烈な聖母崇拝」、「女性崇拝の秘儀」であり、魔術で言うところの「イシスの秘儀」とも結びつく。
 レヴィは、さらに聖シュルビスの思想を基に「あらゆる宗教を統合する原理」を見出そうと研究を進めた。
 1833年には助司祭となり、1835年に彼は25歳の若さで助祭に任命された。そして、聖シュルビス教会の伝道師として、その未来は洋々たるもののように思われた。

 しかし、ここで劇的な人生の転換が起こる。
 彼は、カソリックの聖職者には、ご法度の恋をしてしまうのである。相手はアデール・アランバックという若い娘だった。彼は還俗し、聖職者の道を捨ててしまう。彼が言うには、この還俗は「生へのイニシエーション」であるという。
 だが、これは悲惨な事件を引き起こす。息子の聖職者としての将来に期待していた彼の母親は、これに大きなショックを受け、自殺してしまう。
 彼はこれによって、大きな精神的打撃を受ける。

 彼は船乗りのための学校の教師や劇団の俳優をしながら生計をたてる。1838年にはパリに戻り、雑誌の挿絵画家にもなった。
 文豪バルザックと知り合ったのも、この頃のようである。バルザックはスェーデンボルグ主義の影響を受けており、あながち彼と共通の部分もあったかもしれない。
 
 そうした中、彼は社会主義者で女権運動のリーダー、フロラ・トリスタンと出会う。
 これがきっつかけとなり、彼は社会主義者となり、政治運動に身を投じる。この時、彼は先の聖シュルビスで学んだ女性崇拝の思想と社会主義思想とをドッキングさせ、これを発展させた。「人類の救済は女性の解放なしでは有り得ない!」という。
 社会主義者で詩人のアルフォンス・エスキロスと交友し、彼の手引きで、当時の文学サークルにも出入りしたらしい。一説によると文豪バルザックとも親交をもったのは、そこでの事らしい。
 ともあれ、彼はエスキロスと共同で「パリの美しい女」という雑誌を出版する。
 彫刻家で女性崇拝の新興宗教を主催していたマパ・ガンノーと出会ったのも、この頃らしい。ガンノーについては、「魔術の歴史」に記述がある。

 1839年、彼はキリスト教の信仰に立ち返ろうとする。ソレームのベネディクト修道院に滞在し、カッシアヌス、ギュイヨン夫人などのキエティスムのキリスト教神秘主義思想の研究を行う。しかし、修道院長との不和から1年でそこを引き払わなければならなくなった。
 その後、彼は「自由の聖書」なる著書を出版する。これは聖書を基にした社会主義、革命思想の本である。
 だが、これが筆禍事件を引き起こす。「聖書の教えを不法に誤り伝えた」として300フランの罰金と8ヶ月の禁固刑を食らう。
 獄中で彼は、かのエスキロスと再会し、彼の勧めでスェーデンボルグの著書を読み、大きな影響を受けた。
 出獄後、彼はカソリック信仰に戻ろうとした。田舎の教会で宗教画などを描いて過ごしていた。
 そして、1843年にはエヴルーの教会で助司祭に返り咲いた。しかし、悪意を持ったマスコミが、かつて彼が異端の書「自由の聖書」の著者であったことを書きたてたために、再び教会を去らなければならなくなる。

 1844年、彼は「神の母 宗教的人道主義叙事詩」なる著書をだし、教会と決別する。この著書は福音と革命思想を結びつけたもので、当時の教会とは激しく対立する代物であった(もっとも、彼は「これこそが最も正統なカソリック信仰である」と主張したのだが、教会はそうは見なかった)。
 そして、社会主義運動へとますますのめりこんで行く。共和主義者の政治クラブに参加しては議論を戦わせ、反体制派の新聞に寄稿し、風刺シャンソンを書きまくった。そして、社会主義関係の著書を次々と執筆した。
 そして、1846年に「飢餓の声」なる著書がきっかけで、2回目の筆禍事件を引き起こす。1年の禁固刑であった。
 同年に起こった二月革命のときには論陣を張り、六月革命のときは、あやうく銃殺されかける。
 この同じ年に、彼はマリー・ノエミ・カディオなる教え子の女子学生と結婚する。これはひどくややこしい色恋沙汰が絡んだもので、一種の「押しかけ女房」にして「できちゃった結婚」であり、彼女との間に娘を一人もうけるも、後に妻の浮気が原因で離婚するはめになる。
 ともあれ、革命以降のルイ・ナポレオンの第二帝政が始まると、彼は急速に政治への関心を失って行く。

 彼は印刷所で「キリスト教文学辞典」を著し、出版する。
 この頃、彼はオカルティズムへと確実に進み始める。
 ポーランドの神秘主義者ウロンスキーに関心を持つのもこの頃だ(後に彼はウロンスキーには批判的なるが)。彼はウロンスキーの義弟と共に雑誌の出版に携わる。
 1853年、彼は劇的な転換を迎える。
 自分の名前をヘブライ風に読み替え、エリファス・レヴィ・ザヘドと名乗るのである。
 こうして、彼は社会主義者から、魔術師としての道を進むことになるのである。

 その翌年、彼はイギリスへ渡る。ブルワ・リットンと知り合ったのもこの頃だ。
 ここで彼は、あの名高いアポロニウス召喚の降霊魔術の実験を行うのである。この顛末は、彼の著書の「高等魔術の教義と祭儀」で、詳しく報告されている。
 この時、彼は亡命中のウンジェーヌ・ヴァントラスとも接触している。
 パリに戻った彼は、本格的な魔術研究に取り掛かる。
 1856年に「高等魔術の教理と祭儀」を発表。
 1860〜65年にかけて「魔術の歴史」を含む大冊「秘教哲学全集」を発表する。
 1861年に「大いなる神秘の鍵」を発表。さらに、1862年に「精霊の科学」を発表する。
 多くの弟子や友人にも恵まれ、1861年にはフリーメーソンへも入会している。

 だが、彼の後半生は地味で貧しいものだった。
 世間の人々からは完全に忘れ去られ、生計をたてるために八百屋のおやじにもなった。
 そして、教会とも和解し、普通のカトリックの信仰へと立ち返っていた。
 彼は1875年にパリで没した。

 だが、彼の残した物は、非常に非常に非常に、大きかった。
 「近代オカルティズムの父」の名は勿論、文学にも大きな影響を与え、彼の著書から影響を受けた文豪の名を並べただけでも優に2桁いってしまう。彼は、間違いなく、19世紀オカルティズムの大巨人であった。


「高等魔術の教義と祭儀」 エリファス・レヴィ 人文書院
「魔術の歴史」 エリファス・レヴィ 人文書院
「悪魔のいる文学史」 澁澤龍彦 中公文庫