田中守平と太霊道


 田中守平の名は、不当な程、忘れかけられている。
 日本オカルティズムにおいて、彼は出口王仁三郎や友清歓真に匹敵する人物であろう。彼の提唱した「霊子術」こそが戦前の霊術ブームの発端であり、その影響は現代の気功法、レイキ、様々な健康法にも及んでいるのだ。

 田中守平は1884年、岐阜県の寒村にて生を受ける。
 恐ろしく早熟な少年で、わずか11歳(小学生)にして、地方雑誌に「忠君愛国士の平生」なる政治論文を寄稿している。しかも、かなりの名文である。内容は、国粋主義思想である。
 明治33年に小学校の教諭となるが、「英才教育」を主張し、職場との軋轢を引き起こし退職。東京へ出る。16歳の時のことである。
 大蔵省印刷局に勤務し、内閣統計局の職員となる。こうして働きながら、日本大学、東京外国語大学に通い、苦学を続けた。
 明治36年、彼は明治天皇への直訴に及ぶ。これは彼の性格を端的に現した事件であろう。強烈な極右、国粋主義思想の持ち主にして、熱くなりやすく、激しい激情の持ち主、一途で頑固。
 ともあれ、この直訴により、彼は逮捕された。だが、直訴状の内容が理路整然としていて、読んだ者に感銘をあたえたこと。そして、マスコミが彼の味方をしたことも手伝って、不起訴となった。
 しかし、釈放後も「危険人物」として、生涯、当局の監視下に置かれることになる。警察は、彼の事件を「誇大妄想」の心神喪失の結果として、生まれ故郷の岐阜に送還し、そこで彼を監視下においた。守平19歳の時のことである。
 
 この時の彼の精神的ダメージは、かなりのものだったらしい。4ヶ月もの間、自室に閉じ篭もり、勉学と瞑想に明け暮れた。だが、これがきっかけとなって、彼はオカルティストとしての才能に目覚めるのである。
 呼吸と食事、これこそが生命の根本要因ではないのか? 肉体と精神の結合体である人間の生命の本質をつかむには、この2つを統制するしかない。
 そのためには、まずは断食だ。守平はそう考えた。
 そして90日にも及ぶ断食修行の結果、彼は「霊子」理論を知り、霊能を獲得したという。

 山を降りた守平は、早速布教活動を開始する。
 そして、リューマチに苦しむ夫人、歯痛に苦しむ少女を、話しかけ手で触れただけで、これを癒してしまう。
 これがきっかけとなり、彼の霊能は大評判となり、近隣から多くの病人が押しかけて来た。
 そして、多くの支持者と弟子を獲得する。
 
 明治39年、彼は名古屋に出て、「大日本青年会」を設立する。
 これは、オカルト団体と言うよりは、政治結社であった。要するに愛国心を青年に教えることを趣旨とした団体だ。
 これは高級将校の支持も受けたが、そのスポンサーの急死で頓挫する。
 彼を危険視している警察の弾圧を受け、1年の禁固刑の後、またもや故郷に強制送還される。明治41年のことだ。
 故郷では山に篭もり修行を行った後、宇宙の太霊を感得し、「太霊道真典」なる著書をものにする。
 こうして、彼の霊術体系、「太霊道」が完成したのである。
 
 明治44年、彼は大陸へ渡る。いわゆる大陸浪人となったのである。
 そこで彼は神人を自称し、霊術を実践しながら、辛亥革命の活動家たちと交流した。
 帰国後、東京に「宇宙霊学校」なる例術を教える塾を開講。
 さらに大正4年に衆議院議員に立候補するも落選。
 政治家の道をあきらめた彼は、オカルティストの道を進むことを決意する。
 そして翌年に、東京に「太霊道本院」を設立し、心霊治療と霊術家の育成に本格的に取り組むことになるのである。

 彼が言うには、太霊道の主義とは「太霊を信奉し、全・真・融会・創化・進展をすること」であり、その目的は「宗教、科学、哲学、道徳を包容し超越する」ことであり、「宇宙の真理を研究し、人生の本義を知る」ことであり、「生命の根源を究明し、これを現す」ことであるという。
 そして、さらに全世界の人類の思想を導き統一し、精神の安立と肉体の健康を得ることだという。
 太霊とは、宇宙に偏在する超越的実体の本源であり、この実体を活動的方面より見る時、これを「霊子」と呼んだ。
 また、物質も精神もこの「霊子」なる一元的なものから生み出され、発現している。その力は太霊の究極的原理によって現れる。
 この霊子を発現させる術こそが、「霊子術」であるという。霊子術を実践すると、「霊子作用」が引き起こされるが、これは肉体の作用でも精神の作用でもなく、肉体や精神の原因実体である霊子の作用であり、この作用には2つの発動の状態があり、一つは顕動作用、もう一つは潜動作用である。太霊道の霊術とは、この2つの作用の発言をコントロールする技術のことであるという。
 こうした作用は、病気の治療は勿論、教育や性格の改善、果ては軍事利用も可能だという。
 具体的な訓練方法として、呼吸法、食事法、気合法、気を練る練丹法の応用、催眠術、針を刺す法なども用いられた。また、西洋の心霊主義も取り入れ、テーブル・ターニングやウイジャ板なども用いていた。
 彼の修行方法は、メスメリズムや心霊主義、錬丹術の混合ではあったが、それを「霊子術」なる独自の体系でもってシステム化し、さらには国粋主義的な道徳でもって思想化したところが、大きな発展であった。
 こうした技術については、「太霊道及霊子術講授録」なる本が復刻されているので、興味をお持ちの方は読まれると良い。
 彼の技術は、国粋主義的な思想を基にしている割には、西洋の心霊主義の影響が強いのが特徴だ。古神道の影響の強い大本教とは、ここが対象的だ。ゆえに両者は後に対立することになる。
 ここで注意すべきは、彼の国粋主義は、今あるような偏狭で排他的な自称愛国とは、全く異なったものである。大陸浪人でもあった彼は、それなりの国際感覚も持ち合わせていた。彼は自分の太霊道を世界中に広げようとも考え、英文でも著書を著した。
 ともあれ、彼の太霊道は多くの支持者を集め、巨大化する。軍人や官僚、知識人も続々と参加した。
 
 だが、ここで強力なライバルが現れる。
 大本教である。
 大本教の浅野和三郎は、太霊道を低級霊の憑依の産物と決めつけ、機関紙で攻撃した。
 熱くなりやすい守平も、大本は無責任な終末論を言いふらす邪教であり、精神病の産物と言い返す。
 二人は、ついに直接会って、「霊能対決」に及ぶ。
 浅野は古神道の方法で持って、守平に憑いている霊を呼び出そうとしたが、うまく行かなかったらしい。
 大本教側は、一方的な勝利宣言記事を出し、太霊道側もこれに反論する。
 結局、この「対決」は、わけの分からぬまま終わってしまった。

 大正9年、守平は故郷の武波村に、本部たる大本院を建設する。
 多くの支持者がそこに押し寄せ、岐阜の寒村はにぎやかになり、膨大な手紙をさばくために郵便局が作られ、国鉄の駅までもが設置される。
 
 だが、太霊道の衰退は急速であった。
 大本院が不慮の火災で全焼してしまうのである。
 また、続々と現れる新しい霊術との抗争も、衰退化の原因となった。さらに、科学者達からの容赦の無い攻撃もこれに加わった。
 昭和3年、1928年に彼は世を去った。
 これにより、太霊道は大きく衰退し、やがて消えた。
 だが、彼の作り出した霊子理論は、着実に外の霊術へと強い影響を与え、今もなお日本の気功、レイキ、各種霊術の中に生きているのである。


「新・霊術家の饗宴」 井村宏次 心交社
「太霊道及霊子術講授録」 田中守平 八幡書店