法の書とテレーマ教

 「法の書(LIBER AL vel LEGIS)」とは、クロウリーによって創始された宗教、テレーマ教の聖典である。

 この本は、いわゆる自動書記によってかかれたという。
 発端は、1904年カイロにて、彼の新妻ローズとのハネムーンの時のことである。この大旅行の最中にも、魔術実験を欠かさなかったクロウリーだが、その実験中にローズが突然に神がかり、奇妙なお告げを伝えてきた。
 ローズは魔術やエジプト神話には、まったくの素人だったにも関わらず、ローズは専門用語を口走り、ホルス神の名を口にした。そのお告げによると、「クロウリーはホルス神を怒らせたので、彼を召還して謝るべきだ」という。
 クロウリーは、そのお告げに従い、ホルス神の召還儀式を行ったところ、今度はクロウリーが神がかり、自動書記で1冊の書物を書き上げた。これが「法の書」であるという。
 彼に「法の書」を伝えた存在、それは、ホルス、すなわちホール・パール・クラアトの使者にして、「秘密の首領」の一人にして、クロウリーの聖なる守護天使エイワスであったと言う。

 この「法の書」は、クロウリー自身の注釈と合わせて、国書刊行会より日本語版も出ている。

 さて、この「法の書」の教えとは一体どのようなものなのであろうか?
 「法の書」は、オカルティズムの奥義書の殆どがそうであるように、象徴と寓意の塊で、そのまま読んでみても、意味不明のアホダラ経である。
 クロウリー自身も、解釈は難解であり、「よく理解できない部分もある」と認めてるほどのものなのだ。
 しかし、その思想は、以下のようなものであるという。

・キリスト教に代表される、人間が神に従うだけの「奴隷の宗教」の時代は終わり、人間自身が神と化す宗教の時代が始まる。

・人間は自己に内在する「真の意志」を発見し、それに従って生きなければならない。

 有名な「法の書」の一節、「汝の意志するところをなせ、それが法の全てとならん」は、決して「好き勝手に生きよ」という意味ではない。自分の心の中に隠されている「真の意志」を発見し、それに従って生きる」ということである。
 すなわち、人間の心の中には、誰もが「神性のかけら」を含んでいる。仏教で言うところの「仏性」である。
 しかし、たいていの人間は、この「神性」は、大量の煩悩の奥底に沈み隠れており、それが現れることはない。そこで、修行者は、なんとかしてこの「神性」とコンタクトをとり、それを引き出さなければならない。
 この「神性」とコンタクトし、引き出すことこそ、「守護天使との会話」であり「神との合一」のことなのである。

 すなわち、「真の意志」を発見し、それに従い生きることにより、人間は神と化す。
 そういう宗教こそが、キリスト教のような「奴隷の宗教」と取って代らねばならぬ。
 それが、「法の書」の思想であり、この人間自身を神と化すための新宗教として、「テレーマ教」を創始したわけである。。

 クロウリーは、人間自身が神と化す具体的な手段として、魔術を使おうとした。
 実際、「守護天使との会話」、「神との合一」は、クロウリーに限らず、あらゆる近代魔術の流派が、最終目的に掲げているものだ。
 彼は、黄金の夜明けやOTOの儀式を、彼独自の方法で改造し、独自の技術・教義を作り上げて行くことになるのである。

 この「テレーマ」という言葉は、ギリシャ語で「意志」を意味する。あのフランシス・ラブレーの風刺小説「ガルガンチュア物語」から、拝借したもので、実は「汝の欲することをなせ」という言葉自体、この作品からの引用でもある。
 ラブレーの反キリスト教的な傾向が、クロウリーに影響を与えているのは厳然たる事実であろう。しかし、だからと言って、ラブレーの風刺とクロウリーの思想をイコールで結んではならない。

 さて、クロウリーは、こうしたテレーマ教の魔術的修行を実践する修道院として、イタリアに、かの「テレーマの僧院」を創設する。
 だが、これは悲惨な失敗に終わる。もともと経済的に苦しく運営には無理があったし、衛生状況など環境もかなり悪かったらしい。
 そこへもって弟子が食中毒で倒れてしまう。クロウリーは、彼を医者に見せず、自分で治療しようとするという重大なミスをしでかす。それがため、弟子は死亡する。
 クロウリーは、その弟子を「テレーマ教の尊い殉教者」として、魔術式の葬式を行った。しかし、それが地元のマスコミに煽情的に取り上げられ、またムッソリーニ政権下の締め付けが厳しい状況もあり、イタリア政府から国外退去を命じらた。これによって、テレーマの僧院は閉鎖を余儀なくされるのである。

 しかし、もちろんクロウリーは、テレーマ教の実践と宣教はやめることなく、生涯に渡って続けた。
 そして、それらはOTO各派をはじめ、多くの後継者たちによって引き継がれている。

 しかしながら、この「法の書」は、よく言われる通り、確かに毒を含んでいると思う。
 かのクロウリーへの悪意を含んだ伝記を書いたジョン・サイモンズは、この「法の書」について、「民主主義も無ければキリスト教的慈愛もなく……子供じみた癇癪に満ち溢れている」。
 ヒットラーの思想との類似を指摘する声すらある。
 言われてみれば、その通りだ。
 しかし、そもそも「法の書」を、キリスト教のように神の慈愛を求める宗教の聖典と考えて読むべきものではない。「法の書」において、「神」とは崇めたり、慈愛や救いを求めたりする対象ではないのだ。あくまで、人間が目指す、目標でしかないのだ。
 さらに、神と化すためには、一般的な道徳をも別に置かれる。善悪なども、小癪な人間の浅知恵であり、神と化すことを目指す人間にとっては、さして重要なことではない……。
 もちろん、これは極論だ。
 実際、現代のテレーマ教の後継者達も、こんな考えは持っていない。きちんとした道徳観を持っておられる立派な方々が殆どだ。
 ただ、「法の書」には、そういった毒の部分も、含有していると言えなくもないと、私は思う。
 その上、誤解の種となる記述もおびただしく蒔かれている。 
 だから、この本は、初心者が注釈や先達の助言なしに、いきなり読むべきではない、と忠告される。

 この「法の書」の伝授は、先に述べた通り、自動書記によって得られた。1904年4月8日から3日間にかけて行われた。
 クロウリーによると、ペンを取り白紙に向かうと、その「声」は部屋の隅から左肩を越えて聞こえて来たという。
 この書は3章構成からなり、各々66、79、75節からなり、全部で220節から成る。別名を「第220の書」と呼ばれるのは、そのためである。これらの数字には、カバラのゲマトリア的な意味があるという。

 最後に、「法の書」が出版されると、戦争が起こるというジンクスがあるとう噂がある。
 しかし、これは、こじつけだろう。この地球上では、いつでも世界のどこかで、戦争状態になる国が、必ずどこかにあるのだから。


「法の書」 アレイスター・クロウリー 国書刊行会