ジョン・ディー
ジョン・ディーは1527年、ロンドンに生まれた。彼の父親は、イギリス王室で働く下級官僚であった。
彼は15歳の時にロンドンのチェルムスフォード校に学び優秀な成績を修め、1542年には父親の援助でケンブリッジ大学に入学した。ここで彼は「毎日睡眠は4時間のみ、飲食の時間は2時間で、それ以外の18時間は全て勉強」という猛勉強を行う。ことにギリシャ語と数学の才能が認められ、若干19歳で大学の研究助手となった。そして、その2年後には修士号を得て卒業し、オックスフォード大学の教授職を辞退してルーヴァン大学へと入学した。
ディーが魔術に興味を持ったのは、ケンブリッジ在学中のことであったらしい。そこで彼は数学に熱中したのだが、当時の数学はヘルメス哲学や占星術とも密接に絡み合っていた。
ディーはルーヴァン大学に2年間在学したが、そこで「天空のヘルメス」というヘルメス哲学に関する著書を書いている。残念なことに、この著書は散逸して現存してはいない。
その語、彼はパリに向かう。ここで、彼の学識は評判となった。特に、ユークリット幾何学の講義が高く評価され、大学の教授職の誘いもかけられた。
こうして、ディーは「数学者」として、社会的な地位と名声を確立したのである。
1551年、ディーはイギリスに帰国する。
彼は王室からその学識を認められ、年金を下賜される宮廷学者となる。そして翌1552年にペンブルック伯爵家に仕える。さらに、有力貴族のノーサンバーランド公とも親しくなり、公の子供たちの家庭教師も勤めた。また、占星術の研究も始め、貴族達の求めに応じて、占星術の論文を書いたり、ホロスコープを作成した。
1555年、ディーにとって、最初の危機が訪れる。
ディーを宮廷学者に任命したエドワード6世が16歳の若さで夭折する。エドワード6世は王位継承者としてヘンリー7世の孫娘のレディー・ジェン・グレイと言う少女を指名した。ディーと親しかったノーサムバーランド公もこれを指示する。
しかし、ヘンリー8世の娘のメアリが、強力な政治力でもって、ジェン・グレイとノーサムバーランド公を斬首し、自分が王位に着いた。メアリ1世である。その後メアリはスペインの王位継承者フェリペ2世と結婚する。これに反対する勢力がクーデターを計画し、メアリの代りに妹のエリザベス(後のエリザベス1世)を王位につけようとしたが、メアリはこの計画を事前に知り、関係者を処刑し、エリザベスをロンドン搭に幽閉した。
さらに、メアリはカトリックに心を寄せ、大勢のプロテスタントを火刑にした。
世にいう「血まみれメアリ」の恐怖政治である。
ディーは、このメアリに招聘され、彼女と夫のホロスコープを作成するように命じられた。
ところが、その直後にディーに逮捕状が出される。ディーはメアリやフェリペ2世の他に、ロンドン搭に幽閉中のエリザベスのホロスコープも作成したが、これがいけなかったらしい。要するに、エリザベスに謀反を唆しているのでは? という疑惑が持ち上がったらしい。さらに悪いことにディーは、メアリと敵対したノーサムバーランド公と親しかったわけで、これも災いしたのだろう。
その後、ディーは宗教裁判所に移される。ここでの彼の容疑が何であったのかは記録がない。だが、牢で親しくなった友人が火刑にされたことが、大きなトラウマとなり、ディーは生涯に渡って宗教裁判を恐れるようになる。
結局、ディーはその年の内に無罪が証明され、釈放された。
1562年、ディーは再びヨーロッパ大陸に戻った。
彼は大陸のあちこちを旅して周り、博物学者のゲスナーをはじめ当時の名だたる科学者達と交流した。
彼は多くの知識人たちから一目置かれたが、その名声は主に数学者としてであった。
ディーが天使召喚の魔術に興味を持ち、研究を始めたのもこの頃である。もともとディーは、コルネリウス・アグリッパの「オカルト哲学」に感銘を受けていた。そして、アグリッパの師匠にあたるトルテミウスに興味を持つ。
ことにディーは、トルテミウスの「暗号記法」に夢中になる。私は別項で、この本の3巻は魔術の書だが、1〜2巻は純然たる暗号の書だと書いた。だが、オカルティストの中には、実はこの1〜2巻にも暗喩の形で天使召喚の奥義が隠されているのだ、と考える者もいる。
この書は発禁書であることも手伝って、ディーは入手にかなり苦労したらしい。だが、ついに念願の書を手にし、10日もかけてこれを書写した。
この書がきっかけとなって、ディーは天使召喚の魔術に強い関心を持つことになるのである。
また、この大陸旅行中に、ディーの魔術体系で、非常に重要な位置を占める「モナド論」を完成させた。
1564年、モナド論の著書「象形文字の単子」を出版する。
このモナド論については、別項で詳述する。
そして、同年6月にイギリスへ帰国する。
帰国後のディーの運命は上向きになり始めた。
彼は1570年に母親の実家のある田舎の村モートレイクに居を構えた。
そして、1574年に彼は最初の妻を向かえるが、わずか1年後に妻に先立たれる。そして、2年後にジェイン・フロモンドと再婚する。二人はやや歳の離れた夫婦であったが、人もうらやむ「おしどり夫婦」で、8人の子を設けることになる。
この間、ディーは蔵書集めと魔術研究に熱中することになる。
ディーの蔵書は、当時としては凄まじいの一語に尽きる。彼は「エリザベス朝最大の蔵書家」だったと言われている。
ヘンリー8世の時代の修道院解散により、修道院に保管されていた膨大な本が流出した。これは、本の価値の分からぬ物によって、破壊され散逸しつつあった。ディーの蔵書収集は、こうした知の危機的状況を何とかしなければならないという義務感によるものが大きかった。彼の蔵書は最盛期には4000冊にもおよび、そのうちの4分の1は写本だったという。
しかも、ディーは、これらの自慢の蔵書を死蔵させることもなく、多くの知識人の友人達に利用させていた。
また、ディーはフィリップ・シドニー卿とも親しく付き合い、卿が中心となって作った知識人のシドニー・サークルとも付き合い、彼らに学問を教え、様々な議論をも交わしていた。
さらに、ディーは王室からも強い支持を得た。
かの「血まみれメアリ」は死に、その妹がロンドン搭から奇跡の生還を果たし、王位についた。かの大英帝国の基盤を作ったと言われるエリザベス1世である。ディーは、このエリザベス1世から学識を認められ、寵愛を受けるのである。何しろ女王がディーの自宅をわざわざ訪ねて来ることもあったという。
そして、ディーの自慢の蔵書は、略奪による破壊というアクシデントを経ながらも、かの大英図書館の基盤の一部となってゆくのである。
ディーが天使召喚の魔術実験を始めるのは1580年からのことである。
彼は水晶球を覗き込むことによって、霊を幻視しようとした。だが、ディーには、こうした霊媒の才能が欠けていた。
それでも部分的に何かを幻視することは、しばしばあったらしいが、いずれも満足を得られるほどの成果は無かったという。そこで、ディーは幻視の才能のある人物を探し出すという方法を取った。
彼が最初に見つけ出した霊媒は、バーナバス・ソウルと言う若者だった。彼は数ヶ月間ディーに協力したが、記録に残っていないトラブルを引き起こし、逃げ出してしまう。後に彼は、自分は水晶球では何も幻視しなかったと告白しているが、これはおそらく宗教裁判を恐れてのことであると思われる。
1582年、かのエドワード・ケリーが登場する。
彼は、ディーの噂を聞きつけ、自分の方から霊媒の才能があると売り込んで来たらしい。
ケリーはもともと薬剤師の修行をしていたが、やがてヤクザ連中と付き合うようになり、贋金作りに手を染め、罰として両耳を切り取られていた。その点を除けば、彼はかなりの美男子で、逞しい体格をした若者だったという。
ケリーには、どうしても悪評が付きまとう。品行があまりよくなく、ディーと同居生活を始めてからもそれは治らず、結婚してからも売春宿通いを続け、時折「天使のお告げ」と称して嘘もついた。
しかし、ディーの研究者達は、オカルティストであれ、オカルトを信じない学者であれ、「ケリーが幻視の才能を持ち、幻視を行っていたのは確実」と言う点で意見は、ほぼ一致する。私もそう思う。
また、ケリーは、魔術知識も豊富であった。少なくとも彼はアグリッパの「オカルト哲学」を熟読し、その内容を理解していた。私はケリーの書いた錬金術に関する短い論文を読んだことがあるが、彼は充分オカルティストを自称できるだけの知識を有していた。思うに、彼はクロウリーやカリオストロと同じタイプの人間だったのだろう。すなわち、「山師の部分を兼ね備えた優れたオカルティスト」だったのであろう。
ともあれ、ケリーの協力によって、天使召喚の魔術実験は飛躍的に進んだ。
第一目にしてケリーは水晶球の中に天使の姿を幻視した。ケリーからその天使の姿の説明を受けるとディーは、カバラの知識により、それが天使ウリエルであると分かった。
この時の膨大な交霊記録はディーの生前は発表されなかったが、その草稿は大英図書館に保管され、それが編纂されて出版されたのは20世紀になってからである(この本を読んでみたいのだが、とあるオカルトショップで8万円という価格が付いていたのを見て断念したことがある)。
ケリーの幻視によると、「案内霊」とも言うべき代表者の霊がおり、それが様々な霊をつれてきた。
出現した霊は、天使のこともあれば、死者の霊であることもあった。
そもそも、ディーが天使召喚を始めた理由は、天使達から錬金術の奥義を伝授してもらうことだったのだが、霊達はこの期待には、満足の行く答えはくれなかった。
だが、これには劇的な事件も伴う。天使ウリエルが窓の外に浮かんだ姿で出現した。その直後、天使ミカエルも出現し、ディーにウリエルの持っている水晶球を受け取るように命じた。霊から物質的な物品を与えられたと言う例は、極めて少ない。これには、どうも胡散臭さが伴う。ともあれ、この水晶球は、今も大英博物館に保管されている。
また、有名なあまりに有名な「エノク語」の伝授があったのも、これらの幻視を通してのことである。
これについては、別項で詳述する。
ともあれ、こうした霊の幻視の正体は何だったのであろう?
こんな事件もあった。ケリーは突然、「この天使どもはペテン師だ!」と怒鳴ったことがあった。ディーが理由を尋ねると、天使がお告げを伝えて来たのだが、そのお告げはアグリッパの「オカルト哲学」の文章の丸写しであったという。
つまり、これはケリーの深層意識のいたずらだったのであろうか? 彼の記憶の中にあるアグリッパの著書の文章が、天使の口を借りて出てきたのであろうか?
また、天使の数々のお告げについても、ディーの期待することが、ケリーの意識に影響を与え、こうした自己欺瞞的な幻覚が作り出されただけなのか? ディーが暗号に熟知した人物だったことを考えると、こうした擬似言語の創作はあり得る話しだ。そう判断するのは簡単だが、果たして話しはそんなに単純なのであろうか? かのエノク語のような複雑な体系が、深層意識のいたずらで片付けられるのであろか? 私は答えを出すことは出来ない。
1583年、ディーはポーランドの貴族アダルペルト・ラスキー伯爵と知り合う。そして、ラスキー伯爵の強い勧めで、オカルト研究家のドイツ皇帝ルドルフ2世(オカルトに夢中になりすぎて国庫を疲弊させた悪名高い皇帝)を訪ねることになった。
ディーはこの旅行には、あまり気乗りがしなかったが、ケリーの強い勧めに、しぶしぶ従った。
この4年間にわたる大陸旅行は、ディーにとってはあまり愉快なものではなかったようだ。
ディーは、学者としても魔術師としても、かなりの名声を有していたので、行く先々で歓迎を受けた。
だが、調子にのったケリーは、自分はディーの師匠であり、「賢者の石」を所有している、と吹聴したりした。しまいには、水晶球覗きなんか馬鹿馬鹿しくてやってられるか、と言い出す始末。
ともあれ、ディーは、ルドルフ2世の居るプラハに到着したが、ドイツ皇帝の反応は冷たかった。
二人は直ちにプラハから退去するように命じられたのである。
理由は、ローマ教皇が圧力をかけてきたからだという。
その後、二人はボヘミヤ太守に暖かく歓迎され、そこで1年半をすごした。
だが、ここで有名なスキャンダルが起こる。
ケリーが天使のお告げで、「ディーとケリーは妻を交換しなければならない」と伝えてきたと言い出したのだ。
信じがたいことだが、ディーはこれを信じた。ディーの妻は悲鳴をあげてこれを拒絶した。
これが実現したのかどうかは、私は知らない。
だが、さすがにディーも、そろそろケリーとは付き合いきれないと感じたらしい。
二人は決別し、ディーは1589年にイギリスに帰国した。
ケリーのその後はよく分からない。ただ、錬金術師、占い師として商売を続けたらしいが、後に逮捕され獄死したらしい。
ディーは帰国後、エリザベス女王の援助でマンチェスターの学校の校長の職についた。
そして、留守中に略奪された蔵書の復元を続け、知識人たちと交流を続けながら、天使召喚の実験も続けた。
彼は霊媒として息子のアーサーや、バーソロミュー・ヒックマンなる協力者を得て実験を重ねた。ヒックマンは、そこそこの幻視能力を持っており、天使ラファエルの召喚に成功した。
だが、肝腎の錬金術の奥義の伝授までには至らなかったらしい。
やがてエリザベス1世が死去し、ジェイムズ1世が即位すると、もうディーは、大きな社会的成功は諦めなければならなかった。何しろジェイムズ1世は魔術嫌いで有名な王であった。
ディーは1608年に故郷のモートレイクで、その生涯を閉じた。
ディーは、魔術師であるだけでなく、哲学者、数学者、技術者、蔵書家、王侯貴族の友人として、歴史に大きな名を残している。
また、魔術においても、トルテミウス、アグリッパに続く、近代の儀式魔術の礎を築いた重要なオカルティストでもあった。
PS:ディーとケリーについては、悪意に満ちた伝説もある。これは英国の無名の劇作家によって、でっちあげられたものだ。また、「エピソード 黒魔術と白魔術」なる文庫本にも、悪意に満ちた事実を歪めた伝記があるので注意すべきであろう。
「ジョン・ディー エリザベス朝の魔術師」 ピーター・フレンチ 平凡社
「オカルト」 コリン・ウィルソン 河出文庫
「西の窓の天使」 グスタフ・マイクリング 国書刊行会
※ディーを主人公にした小説。取材して書かれた作品であり、参考になる。
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