科学のルール


 申し訳ありませんが、まず最初にココココの2つのページを読んでください。
 本章は、この2つ「科学的とはどういうことか」と「科学が万能ではないわけ」のページの主張を前提に書かれています。

 全章で科学とはリクツだけでは駄目だ。再現性のある証拠によって検証され反証されていないものでなければならない。と書きました。
 しかし、友人より、こんな指摘がありました。
 「それだけでは不十分だ。トンデモさんは、表面上は自分のトンデモ説を検証しているようにみせかける。しかし、その検証の仕方が出鱈目なのに加え、議論のやり方が詭弁だらけだ。彼らとの議論の争点は、ほとんどそこにある。不精せずに、科学的態度って奴について書け。」
 ……なるほど、疑似科学を奉じる人の主張は、むしろ「科学的態度を守っていない」ことに大きな問題があるように思います。
 そこで、ここでは科学的態度について述べてみたいと思います。
 
 ただ、ここで一つ言っておきたいことは、こういうルールを守らない人は、オカルト肯定派だけではなく、反オカルト派の人にも非常に非常に非常に多いのが現実だ、ということであります。

 なお、以下の記述は「人はなぜエセ科学に騙されるのか」(カール・セーガン)に大きく依存しております。できますことなら、この本を一読されることをお勧めします。

●自分の奉じる仮説はいつでも捨てる覚悟でいること
 ここが科学者と疑似科学者を分ける最大のポイントかもしれません。
 どんなに確実に見える学説でも、百年後や二百年後にはひっくり返されるかもしれません。
 自分の信じる説に固執してはいけません
 これは科学の「自己修正機能」の根拠となる重要な考え方です。科学の進歩というものは、迷走と軌道修正の繰り返しです。確実と思われていた説がひっくり返されることの連続です。一つの説を絶対視していては、科学の進歩は望めません。
 
 最悪なのは、「まず最初に結論があって、その結論に都合の良いデータを集めて、検証しようとする」ことです。疑似科学者の殆どは、こういう手段を取ります。
 「霊はある」という結論が最初にあって、それに都合のよいデータばかりあつめる。あるいは、「霊の存在は物理学の基本法則に反する」と最初から決めてかかる。こういう態度がそれです。

 科学者は、どんなに確実に見える学説でも、常にそれを捨てる覚悟を持つべきです。それは、物理の基本法則だろうと、進化論だろうと、「地球はまるい」だろうと例外ではありません。
(イコール捨てろ、という意味じゃないですよ。念のため)

●データや証拠や論拠や主張を公平に扱え
 疑似科学者達との議論の80%以上を、これが占めるんじゃないでしょうか?
 以下に、主な「不公正」な扱いを挙げてみます。

1.都合のいいデータ(or論拠)ばかりをあつめ、都合のわるいデータ(or論拠)を無視する
 要するに、自分の主張に都合のよいデータばかりを使う。例えそれが例外的なデータであっても。そして、自分の主張に都合の悪いデータは、一般的で圧倒的に多くても無視する、というやりかたです。

 例をあげましょう。
 例えば占い師が100の予言をしたとする。そのうちの99がはずれ、1つだけ的中した。この時、その1つだけを証拠とし、「予知能力はある!」と主張する。
 また例えば、ここに一匹の犬が居る。その犬は事故で後足を一本失う。これをみて、「犬は足が4本あるはずなのに3本しかない。だからこれは犬ではない」とする。他に耳や目や鼻や内臓やDNAが、犬であることを示していても、これを無視し、足の数だけを問題にして、「犬ではない」と決め付ける。

 これは最も多い詭弁でしょう。
 あるいは、単に勉強不足で99のはずれた予言の存在や、耳や目や鼻や内臓やDNAのことを知らないだけのこともあります。

 真に科学的な態度とは、無心に偏見を持たず、なるべく多くのデータや論拠や主張をあつめること
 であります。
(あと、例外的な少数のデータを無視してもよい、という意味ではりませんよ。それは単なる誤差や測定ミスかもしれないし、何かきちんとした理由があるのかもしれません。そこから新しい発見があるかもしれません。けど、これを多数派の一般的データの全否定に使ってはいけません)

 科学実験をする者なら、「それくらい常識だ」と言われるでしょうが、これを守らない人は肯定論者にも否定論者にも非常に非常に多いのが現実です。

2.データ捏造
 論外。
 「嘘つき」と「空想と現実の区別がつかない」の2種類がある。

3.データ操作
  霊を信じていない人ばかりを集め、「霊体験をしたことのある人は居ますか?」とアンケートを取り、「大多数が無い、と答えた。これは霊が無い証拠である」とする。
 あるいは、霊を信じている人ばかりを集め、「霊体験をしたことのある人は居ますか?」とアンケートを取り、「大多数があると答えた、これは霊がある証拠である!!」とする。

●論理のすり替えをしないこと
 これは「検証のルール」というより、「議論のルール」でしょうねえ。
 けど、これは科学論争にせよ、擬似科学VS科学の論争にせよ、非常に非常に多いんです。
 以下に、主な「すり替え」を挙げてみましょう。

1.論点のすり替え
 今、問題にされてる事から、他の事にすり替えようとすることです。 
 論理学で言うところの「相殺法」という強弁が、その好例でしょう。

 分かりやすい例を挙げて見ましょう。
 捕まった泥棒が「なんで俺だけを逮捕するんだ、俺以外にも泥棒はいるだろう!!」
 「なんで、日本の戦争責任ばかり追及するんだ! 中国だってチベット侵略してるだろう!」
 
 …幼稚ですね。けど、こういうリクツは擬似科学論争では、よく散見されます。
 「何で、オカルティストの捏造や狂信ばかりを批判するんだ。科学者だって同じようなことをやってるだろう!!」

2.論理の飛躍
 いきなり話しや理論が、何の根拠も示されないまま、結論や別の理論へ飛ぶ。
 前提とつながらない不合理な結論を出す。

 これも、実に非常に多い。

以下、その例。
「科学は万能ではない。だから霊は存在する。」
「今は21世紀の科学文明の時代だ。だから霊は無い。」
「地球外生命は存在する。だから、宇宙人はUFOに乗って地球に来ている。」
「宇宙人なんて漫画っぽい。だから宇宙人は地球に来ていない。」

3.わら人形
 「架空の論敵を攻撃する」とも呼ばれる。
 相手の言い分を聞かず、勝手に相手の意見なるものを発明し、これを攻撃することで、相手を批判したつもりになる

例。
「占星術師は、人の性格をたった12種類に分類している。」
(占星術師は、そんなことは言っていない。本当の占星術では、生まれた月日だけではなく、年や時間でもって、それぞれ異なるホロスコープを使って占う。そのパターンは膨大な数になる。)
「進化論者は、生物は偶然で生まれた、と言っている。」
(自然選択説の支持者は、そんなことは言っていない。自然選択説は「適者生存」の理論であり、これは偶然ではなく必然的な結果である)
「反戦平和論者は自衛隊を否定している」
(そういう人も確かにいるが、反戦論者の多くは自衛隊の存在や必要性を認めたうえで、戦争や自衛隊海外派兵に反対している人のほうが多い)

4.権威主義
 言うに及ばずです。
 有名な科学者が言ったから、これは確実なんだ。
 社会的地位のある人の目撃談なんだから、信用できる。
 と根拠もなく決め付ける。

5.悪魔化
 上の4の逆。
 「レッテル張り」ともいう。
 あいつはオカルト信者だから言うことは信用できない。
 あいつは科学万能主義者だから言うことは信用できない。
  それを言った人間を悪魔化して、論拠や仮説を全否定しようとする。
 論理学で言うところの「二分法」と呼ばれる強弁の行き着いた先ですね。
 NETの議論でも、よく見ますよね。普通のファンや支持者を「信者呼ばわり」することによって、論破したつもりになってる人とか。
 サヨクだろうとウヨクだろうと、オカルト信者だろうと科学万能主義者だろうと、正しいことを言う時もあるし、間違ったことを言うこともある。問題とすべきは、人ではなく、その主張の方なのに。

6.一方的なパラダイムの設定
 勝手に自分だけの都合のよいルールや法則や選択肢などを決め、論敵にこれを一方的に強制する。
(なお、ここのページのルールは、私が勝手に決めたことではなく、自慢じゃないですが下の参考文献のまる写しです)

 例。
「君は霊を信じない真人間か? それとも霊を信じるデンパか?」
「超能力を信じる奴は、みんなオウ●信者である。」
「霊の存在を信じない奴は、みんな夢が無く頭が固い。」
「オタクは気持ち悪い。」

7.曖昧化
 「お茶を濁す」とも言う。

8.因果関係のこじつけ
 AをやったらBになったとしても、必ずしもAはBの原因とは限りません。
 また、「AとBは相関がある」と言うのと「AとBは因果関係にある」を混同してはいけません。

例。
「田中君がハイキングに来ると、雨が降る。だから、田中君が雨を降らせてるんだ。」
「統計を取ると超常現象を信じる人は大学卒業者に多い。したがって、大学教育では超常現象肯定論を教えている。」
「子供の非行は、漫画やアニメのせいである。」

●無知は素直に認め、これを正すこと 
 当たり前のことですね。
 人間である限り、何もかも知ってるなんてことは絶対にありえません。
 無知それ自身は恥ずかしいことではありません。恥ずかしいのは、それを指摘されても直さず、居直ることです

●仮説は複数立てよ
 謎が発生すれば、その答えについて複数の仮説を常に頭に置いておく事。
 例えばUFOがあったとしたら、「宇宙人の乗り物」説のほかに、各種の自然現象説、各種誤認説、作り話し説などを立て、検証と反証を重ねながら選別しなければなりません。
 こうした「選別」を経た仮説ほど、説得力は増すわけです。

●定量化せよ
 これも基本中の基本ですね。
 数値化できるものは数値化し、定型化できるものは定型化させること。
 それによって、理論の打ちたては正確かつ容易になります。

●知識には貪欲になれ
 論理が骨なら、知識は血肉です。これは多ければ多いほど良い。多すぎて困ることはありません。

●偏見こそ敵!!
 当たり前ですね。
 根拠の無いまま、ものを信じ込んではなりません。

●感情的になるな
 これも当たり前です。

●定義をはっきりさせよ
 これも議論で良くみますよね。それぞれ別の定義を持った者どうしが議論しても、話しは永遠に噛み合いません。
 例えば、「UFOとは地球外生物の乗り物のことである」と思ってる人と、「UFOとは「未確認飛行物体」のことであり、地球外生物の乗り物と限ったわけではない。プラズマだろうと気球だろうと、その正体が確認されないうちはUFOだ」と思ってる人が話し合っても、噛み合うことはないでしょう。
 議論や主張の前に、定義をはっきりさせ、共通認識をしっかりと作りましょう。

●ダブル・スタンダードは用いない
 これもまた、議論でよく見ます。自分の都合に合わせて、基準をコロコロ変えるのは、矛盾というものです。
 例えば、南京事件論争などで、「虐殺を見たという中国人の証言は、信用できない」としておきながら、その直後に「虐殺を見ていないという日本兵の証言は信用できる」としたり。あるいは「虐殺を見ていないという日本人の証言は、信用できない」としておきながら、その直後に「虐殺を見たという中国人の証言は信用できる」としたり。
  歴史上の事件の目撃者の「証言」には、しばしば物的証拠が無く、語り手の主観や記憶違い、時には嘘も混じるものです。それで、こうした「証言」をどこまで信用できるかについては、他史料とのすり合せ等の慎重な作業が必要なわけです。
 しかし、そうした慎重な作業をせずに、自分の主張を押し通そうとする人もいる。そして「証言」の取り扱いでダブル・スタンダードを使うわけです。
 同じ「証言」なのに、このように自分の主張に都合の良いように判断基準をコロコロ変える。

●自分の信じたい仮説こそ疑え!!!!!
 これが、最も重要な態度でありましょう。
 徹底的に疑い、反証を試みまくりましょう!!
 これによって、自分の仮説の弱点を発見することができます。結果によっては、その仮説を放棄しなければならなくなるかもしれませんし、修正だけで済むかもしれません。ともかくも「真実に近づくことができる」ことには違いありません。
 そして、これこそが「思い込み」の罠に嵌ることを避けることができるでしょう。


 以上、随分と偉そうなことを書いてしまいました。
 しかも、これを全部守るのは、割と難しいとも言えましょう。私自身、これを全部守ってるのか? と問われれば「うっ」となるでしょう。

 もう一つ、強調したいのは、これはあくまで自然科学のルールだと言うことです。
 逆に言うのなら、こうしたルールは、自然科学以外のものには、必ずしも有効ではないということです。

 私が思いますに、こうした自然科学のルールを振り回して、例えば宗教やオカルティズム思想と言った「自然科学以外のもの」を攻撃するのは、傲慢な考え方だと思います。
 実際、こうした科学畑の人の中には、自然科学の価値観を絶対視して、他人の信仰に土足で上がりこむ人が居るようです。長い伝統を持つ素朴な民間信仰を馬鹿にして破壊しようとしたり、他人が心の拠り所にしている信仰を攻撃して、その人の心を平気で傷つけたり。
 逆に、宗教や個人の思想でもって、科学のルールを無視し、勉強もせずに科学を攻撃するのも、やはり傲慢だと思います。物理学の基礎も知らないのに相対性理論を否定しようとしたり、生物学や地質学の基本知識も無いのに進化論を否定できると考えたり。これでは、毎日血の滲むような努力をしている科学者は怒りますよ。

 でも、これにも例外はあると思いますよ。
 こうした宗教なり科学なりが、他人や社会に迷惑をかけている時は別です。
 「医者に行くより、俺の霊感治療の方が病気に効く!!」と言ってる人に、医学者の立場から批判するのは良いjことです。
 また、「真実の追究」と称して、大量殺人兵器の研究に勤しむ科学者を、宗教者としての立場から批判するのもありでしょう。

 こう言うと、科学とオカルトは相容れないものだ、両立は不可能だ。と言う意見もあるでしょう。
 これはこれで一つの価値観とは思いますが、私は支持しません。何も無理して、あらゆる物を、同じまな板に乗せる必要は無いんじゃないかとも思います。自然科学という1枚だけのまな板でもって、あらゆる物をそれで処理しようとしたり。逆に宗教やオカルトという1枚だけのまな板でもって、進化論をはじめあらゆるものを処理しようとする。こういうのって、どうにも息苦しいんですよね、私の場合。ですから、私はまな板を何枚も持っていて、使い分けております。
 要するに一番大切なことは、自分と異なる分野、それが科学であれ宗教であれオカルトであれ、それを尊重するべきだってことだと思うんですよね。



PS:実は私は、「トンデモ」という言葉はあまり好きではありません(他に適切な表現が無いときは、やむを得ず使いますが)。この言葉を作った人達には、そんなつもりは無かったとは思いますが、現実問題として人を馬鹿にするための「レッテル張り」の用語に使われているのが現状だからです。


「人はなぜエセ科学に騙されるのか?」 カール・セーガン 新潮文庫
「詭弁論理学」 野崎昭弘 中公新書
「新しい科学論理」 村上陽一郎 講談社