パラケルススの生涯


 この西洋オカルティズム、西洋医学の歴史に大きな名前を残すことになる巨人、パラケルススことテオフラスト・ボムバスト・フォン・ホーエンハイムは、1493年にスイスの農家の息子として生まれた。農家とは言っても、彼の父親のウィルヘルムは貴族の血を引く医者であり学者でもあった。彼は学問のための放浪の末、農奴の娘と結婚したらしい。
 パラケルススの母親は、彼が幼いうちに死去した。パラケルススは、自分の父親については嬉々として語るが、なぜか母親については口を閉ざしている。おそらく、母の出所が農奴階級であったことに、コンプレックスのようなものを感じていたからであろう。
 父親のウィルヘルムは、妻の死後息子を伴って農村から都市のフィラッハに移住する。1501年のことである。都市に移住することによって、彼は高い教育を受けることが出来た。なお、このフィラッハは鉱山業の都市でもあり、必然的に錬金術師達も活動を行っていた。一説には、この時彼は、かのアグリッパの師匠にあたるトリテミウスからも教えを受けたらしい。
 そして1509年、パラケルススは父の家を出て大学へと進学する。彼は父と同様、医学を志した。行き先はウィーン大学であったらしい。ここで学問の基礎を終えて卒業、1512年に一端里帰りをする。

 その後、父の勧めで1513年から1516年までフェラーラ大学で医学を学んだ。パラケルススに医学博士号を授与したのは、この大学だというのが定説である。しかし、彼の伝記作家たちは、大学の現役学生の博士号授与者名簿に彼の名が見当たらないことから、これは大きな謎の一つとしている。パラケルススが医学博士を自称するのは1526年以降であることから、卒業後に論文審査によって、博士号を得たのだろうと推察されている。しかし、その確実な証拠は無い。
 それで、パラケルススは学歴詐称をしているのではないか? との疑惑が、彼の生前から囁かれることになる。
 ともあれ、彼が「パラケルスス」という名を決めたのは、このフェラーラ大学時代のことであったらしい。当時のイタリアの大学の規則で、外国人は名前の発音が難しいことから、ラテン語の「学者名」を使うことになっていた。彼はそれに従って、この名前を名乗るのである。
 「パラケルスス」の名前の由来には二説がある。一つは、彼の性ホーエンハイムをラテン風にしたのだという説。もう一つは、古代医学者のケルススを「越える(パラ)」という意味だという説である。おそらく、この両方の意味を籠めたものと思われる。
 しかし、実際に彼が、このパラケルススという名を実生活においても使用し始めるのは、大学を卒業してだいぶ経った1929年以降なのである。なぜなのかは、よく分からない。彼は若い頃は通俗的な予言や占いの本を書いていたが、この時のペンネームで使っていたのが、次第に愛着がわいて、真面目な論文や著書にも使うようになった、とも推測されている。
 在学中にパラケルススは、多くの医学を学び、自分の恩師に対しては敬意を表している。しかし、大学の医学教育そのものに対しては非常に批判的であった。過去の学説をいつまでも崇め続ける権威主義、解剖実習のような一見新しい教育も形骸化していて意味を成さない……。
 
 1516年にフェラーラ大学を卒業すると、彼は遍歴学生となって、学問のための放浪の旅に出る。彼はドイツ、イタリア、フランス、スペイン、イギリス、ロシアを旅してまわった。一説にはアフリカにまで足を伸ばしたという。これは1524年の8年間におよぶ。
 いわゆるパラケルススの大遍歴である。
 彼は各地の大学や知識人サークルを尋ねて周り、彼らと接触した。また、こうした知的エリートだけではなく、「隠された民衆の知」を得るべく、民間の治療師や占い師、まじない師、免許を持たないモグリ医師までもを尋ねて、彼らの経験則による治療技術をも仕入れた。
 彼は、終生に渡って、「書物の上でしか病気を知らない医学者」が、治療に携わることの危険性を説き続けた。こうした医者よりも、経験豊富な民間治療師からのほうが学べる点は多いということだ。
 ここが、彼が他の権威に凝り固まった医師達と差を付ける大きな要因ともなった。
 例えば、彼はチンキ剤に注目した最初の医学者としても知られているが、それはこうした経験によって得られたものらしい。
 彼はこうした民間療法には、迷信や詐欺が多く混入していることを認めながらも、象牙の塔の医学者達が知らない治療技術が含まれていることを主張したのである。
 
 またこの遍歴の時、彼は新大陸からもたらされた新しい疫病の梅毒の悲惨さを目にする。後に、彼は梅毒の治療について、熱心に研究するきっかけとなった。
 また、戦争にも軍医として従軍もした。もっとも、この時、彼は捕虜となって投獄もされたらしい。
 しかしながら、この経験が基となって、これまで象牙の塔の医学者達が軽視していた外科の技術に注目することになる。さらに、外科医学の父とも呼ばれるパレにも、この遍歴時代に出会っており、その影響も受けた。
 また、彼はこの次期に錬金術への関心をも深め、これを熱心に学んだ。
 もともと錬金術と医学は、結びつくところも多い。錬金術に関心を寄せた医学者は多かったが、パラケルススも例に漏れず、ヘルメス哲学をも深く追求した。
 さらに、彼は呪文や護符にも、こうした治療効果を認め、研究したらしい。なお、彼の名を冠したグリモワールもどきの本もある(しかし偽書と見る専門家も多い)。
 ともかくも、こうしたことから、彼は木の幹の中に封印されていた悪魔を解放して、その返礼として奇跡的な治療技術を手にしたのだ、という馬鹿馬鹿しい伝説も生まれた。他にも銅貨を金貨に変えてみせたとか、鉄くずや焼肉の串を純金に変えたとか、彼の連れている馬は悪魔の化身だとか、妙な伝説が多く語られもした。
 ともあれ、彼はこの大遍歴時代には、学ぶだけではなく、自分の研究結果をまとめ、著書や論文をも執筆をしている。
 彼は1524年に一時的な里帰りをした後、再び旅にでる。だが、この後から多くの論文を執筆した。

 1525年、ザツブルクで、彼は大きなトラブルを2つ起こしている。
 一つは神学論争で、当地の聖職者達と公開論争を引き起こしている。
 もう一つのほうは、洒落になっていない。この頃、虐げられ、搾取されてきた農民や鉱山労働者達は、貴族や教会に対して一斉蜂起をしようとしていた。いわゆるドイツ農民戦争の始まりである。パラケルススは、実に彼らしく、熱弁をふるって農民達を煽動した。ザツブルクでのことである。激怒した当地の司教は彼を逮捕する。だが、煽動のはっきりとした証拠が出なかったため、一時的に釈放される。
 すると、彼はそのまま夜逃げ当然の形で、ザツブルグから逃亡する。
 その後、彼はチュービンゲン大学で短期間教鞭をとった後、バーデンへ行き、宮廷医師達も匙を投げたフィリップ1世の赤痢の治療に成功する。だが、治療費を巡ってのトラブルを引き起こし、王から追い出される。
 
 1526年、彼は学問の街として知られたバーゼル市の名高い人文学者の足の壊疽の治療に成功する。既存の医師たちが、足を切断するしかない、と言っていたにも関わらず、パラケルススはそれを見事に治療してのける。
 彼の奇跡医としての名声は、この頃には非常に大きくなっていた。
 この人文学者jこそが、フロベニウスであった。彼の手引きで、パラケルススは、かのエラスムスとも友人になる。そして、彼らの推薦を受けて、パラケルススは市公認の医師となり、さらにはバーゼル大学の医学教授にもなるのである。
 このまま行けば、彼はバーゼルの名士、医学者として将来は保証されるはずだった。
 だが、これはぶち壊しになる。
 彼は高給だったにも関わらず、その金を酒場で浪費した。これだけでも、彼は冷たい視線を浴びた。
 また彼は、大学の伝統や規則をことごとく無視した。こうした規則無視から大学当局との関係は悪化する。
 そこへもって彼はビラをまき、ヒポクラテスやガレノスやアヴィケンナなどの古い学説にしがみついている現在の医学者達を、口をきわめて罵倒した。
 さらには、有名な焚書事件をも引き起こす。彼は自分を支持する学生達とともに、「古い医学の専制を終わらせる」と称して、古典医学の書を街の真ん中で焼いてみせたのである。
 彼の言動は傲慢を極めた。自分に賛同しない学者達には「犬が後ろ足を上げるだけの価値も無い奴」と罵倒した。また、彼を「医学界のルター」と賞賛した者もいたが、彼はそれに噛み付いた。「私をあんな下らぬ異端者と一緒にするな。」
 これでは、孤立しないほうが不思議である。
 しかし、旧体制に反旗を翻す彼の態度は、血気盛んな学生達をひきつけた。最初は閑古鳥が鳴いていた彼の講義室は、やがて学生でいっぱいになった。
 当時、大学の講義はラテン語で行われるのが慣例だったが、彼は無意味な伝統とし、ドイツ語で講義を行った。
 彼がバーゼルで引き起こしたトラブルは、大学関係だけではない。
 当時、医者の書いた処方箋にしたがって薬を調合する薬剤師達の仕事ぶりは、非常にいい加減であった。それに業を煮やしたパラケルススは、市に対し、薬剤師の資格審査の強化、医者と薬剤師の間にある汚職の弾劾。これを市当局に要求した。
 これにより、彼は市じゅうの薬剤師と医師達を敵にまわしてしまったのである。
 さらに悪いことに、彼の後ろ盾だった人文学者フロベニウスが死去する。 
 そして、またもや市の有力者と治療費を巡ってトラブルを引き起こした。このトラブルで、彼は裁判所や市当局をも敵にまわしてしまう。
 これに対し、かれは持ち前の毒舌を発揮して、敵たちを(かなり下品に)罵詈罵倒した。
 しかし、結果は、ますます自分を追い込むだけだった。
 当時、彼にはオプリヌスという弟子が居た。彼が師匠について語った記録が残っている。彼が言うには、要するに「学者としては天才、しかし人間としては三流」と言った感じのことを書き残している。
 パラケルススは若い頃は酒は飲まなかったが、25歳を過ぎた辺りから飲み始め、この頃には既にアルコール中毒に侵されてしまっていた。ことにオプリヌスが恐ろしげに書き残しているのは、彼は寝るときには常にベッドに剣を持って入り、夜中になると突然起き上がって、その剣を滅茶苦茶に振り回すという奇癖をもっていたことだ。
 これがアル中とストレスから来る譫妄だったのか、はたまたジュール・ボワが言うように、目に見えぬ悪霊ラルヴァと戦っていたのか、それはよく分からない。
 さらに、彼は暇さえあれば、錬金術の実験に熱中した。オプリヌスは、こうした師の錬金術狂いにも多大な疑問を呈している。
 ともあれ、1528年に、パラケルススは夜逃げ同然の形でバーゼルを去った。

 1529年には、ニュールンベルグに滞在する。
 最初、市はこの奇跡医を歓迎した。
 だが、またもやトラブルだ。いわゆる梅毒論争である。
 彼は、梅毒の研究を熱心に行っていた。特筆すべきは、彼は水銀が梅毒の病気の進行を遅らせることを発見したことであろう。実際、抗生物質が発見されるまで、すなわち20世紀初頭まで梅毒の治療薬には水銀化合物が使われ続けたのである。
 しかし、彼は梅毒の発生について、ミスをおかした。占星術を信じていた彼は、梅毒の起源は新大陸ではなく、天体の影響によるものと考えた。
 また、当時、新大陸から渡って来た薬木が梅毒の特効薬だとされてきた。この木は皮膚病には効果があったが、梅毒には無効だった。パラケルススは、この事実を暴露したのである。
 こうした論争がきっかけで、ライプツィッヒ大学と大富豪フッガー家と衝突し、市を追い出されるのである。

 その後も彼は、落ち着く先は見つからない。
 1530年には、占星術研究に熱中し、いくつもの予言書を書く。
 1533年には、鉱山労働者達の鉱山病について研究する。いわゆる職業病の最初の研究者としての名をこれで獲得するのである。
 1534年には、ペストとも戦った。
 彼はその後も、ひたすら各地を転々とする。そして、その間、膨大な数に渡る著書を書き続ける。多くは医学書だったが、錬金術、占星術、予言書も書き、呪文や護符を扱った魔術書(偽書か?)も書いた。
 ことに錬金術に至っては、これまでに無かった「塩」の概念を導入し、ヘルメス哲学にも大きな変革を与えた。これによって、金属変性を主とした無機的な学問だった錬金術は、一種の生命科学へと進歩したのである。
 また、マクロコスモスとミクロコスモスの相互関係に注目し、これを占星術や医学と照応させたことも功績であろう。これは、ヘルメス哲学の発展上、重要な考え方である。
 彼のオカルティズム思想については、別項で詳述したい。

 1537年に、長旅に疲れた彼はケルンテンの定住を試みる。
 市当局は、かれを歓迎した。
 だが、彼は既に多くの敵を作っていた。彼を憎悪するウィーンの医師達は、遠くからスパイを送ってまでして、パラケルススの著書の出版を妨害したりした。
 彼の敵たちは、彼の中傷ビラを方々に撒き散らしていた。
 さらに、勝手に彼の名前を冠したインチキ薬も出回っていた。
 だが、彼は、こうした敵たちの動きに対し、常に徹底抗戦の構えをとっていた。

 彼の死は1541年のことである。旅の途中、ザツブルグの旅館で死去したことは間違いない。
 だが、その死因については、謎も多い。
 酒場の喧嘩で殴り殺された、彼の名声に嫉妬したザツブルグの医者達から暗殺された等がある。だが、これらは後世の伝説である。とはいうものの、19世紀に、彼の遺骨が法医学者達によって調査されたが、外傷の可能性のある傷が認められた、との報告もある。
 だが、定説では肝臓病であり、多くの伝記作家達も、この説が一番信憑性が高いとしている。

 ともあれ、彼の生涯は、波乱に満ちたもので、放浪の連続であった。
 ひとえにこれは、妥協が出来ない、傲慢なまでのプライドの高さ、議論好きと言った彼の性格に帰するところが大と言わざるを得ない。アグリッパやクロウリーのように。
 だが、彼の名は医学とヘルメス哲学の両道に置いて、不動の地位を占めている。
 彼が居なければ、薔薇十字運動もまた、起こり得なかったであろう。


「パラケルススの世界」 種村季弘 青土者
「パラケルススの生涯と思想」 大橋博司 思索社
「パラケルススの生涯」 カイザー 東京図書
「パラケルスス」 K・ゴルトアンマー みすず書房