病院で出会った人達

          このコーナーでは私が病院で出会った印象的な人々を紹介していきます。
          数回の入院経験がありますので、看護婦としての側面だけでなく、患者としてのものも含まれています。では、どうぞ!


1.タケゾーさんという人
2.ケイコさんという人
3.SINGLE-MOTHERになった人との出会い
4.受け持ちナースのこと PART1
5.受け持ちナースのこと PART2
6.ケンスケさんという人
7.腹痛の人



タケゾーさんという人              

今から数年前に働いていた外科病棟でのお話である。
食道癌の手術を受けた後、人工呼吸器につながれていたタケゾーさんという人50代の男性がいた。

これを読んでいる貴方がDrやナースなら理解できると思うのだが、食道癌の手術というのは“開胸”といって
肋骨を切り取って手術操作をする為、どうしても呼吸状態が不安定になる。
自発呼吸(自分の力でしている呼吸のこと)がある無しにかかわらず、数日間は人工呼吸器で管理する…というのは、珍しくない。

タケゾーさんも、そのような状況下にある患者さんだった。
意識はハッキリしており、人工呼吸器を装着したままでもテレビを見たり“かなボード”を指して、
家族や私達ナースとコミュニケーションが取れているという状態だった。もちろん私達が喋ることは彼にも聞こえていたし、
それなりの反応(嫌なことは首を振るとか、かなボードを使う)は出来ていた。

タケゾーさんはパチンコと時代劇を好んでいたのだが、それは私達ナースにも良く知られたことであった。
タケゾーさんを元気にして(大げさに言えば)闘病意欲をかき立てるという目的で、私は当時ハマッていたパチンコで大当たりを出した事を
人工呼吸器に繋がれているタケゾーさんに報告したのだ。「昨日“花満開”で10数箱出したんだよ」って。
そしたらタケゾーさんの小さな目がカッと開いて、手で「かなボード」を要求した。
直ぐに差し出すとタケゾーさんは“よ・か・っ・た・な”というメッセージをくれたのだ。

後日、元気になって退院間近という日にご本人から次のように言われ、2人で笑ってしまった。
「あの時、あんた(ナースのおばちゃん)が花満開で出したって聞いて、俺も早くパチンコに行きたい一心で頑張ったんだ」

ナースのおばちゃんは、人工呼吸器に繋がれている人にそういう事をするようないけないナースなんだよなぁ・・・。

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ケイコさんという人

40代前半の普通の主婦だったケイコさんは、とても芯の強い小柄な女性だった。
のちに焼き肉パーティーとやらに御一緒させてもらった時、ケイコさん本人の口から「目の前が真っ暗になるというのは、
私の場合一瞬だけど本当に真っ暗になった」というのを教えていただいた。それほどセンセーショナルな出来事だったのだろう。

胃癌(イガン)の手術を受けることになったケイコさんが入院してきたのと時期を同じくして、看護学生が実習に来ていた。
その指導係をしていた私は、手術を控えたケイコさんに「学生がついて私たち看護婦と一緒に勉強させてもらえないだろうか」と
お願いにいった。快くかどうかは分からないが、ケイコさんは精神的にも大変な時期だったのに引き受けて下さった。

外来で病名や手術に関する大部分の説明を聞いているとはいえ、入院することによって“周囲の環境”が変わると戸惑うのは
何も老人だけに限ったことではないだろう。ケイコさんも恐らくそうだったと思うが、彼女はドクターやナースの度重なる説明にも
「全て準備は出来ています」というだけでなく「ここが分からない」と言える位、御自分の病気や手術に関する一般的なこと
(誰にもあり得ると思われること)について勉強してきていた。
当然といえば当然のことなのだけど、それが珍しいと感じるくらい一般の人は自分の身体のことについて無関心なのだと感じた。

医療スタッフの一員である私や、ケイコさんについていた学生さんが何よりも驚いたというか
勉強になったのは“病気に立ち向かう姿勢”である。
いつもにこやかな表情からは想像できなかった。ケイコさんはいつも「自分の身体のことは他人任せに出来ない」とか
「戦う気持ちが無くなったらその時点で負け」というふうに言っており、自らの闘病意欲をかき立てていたのかもしれない。
私達ナースに対しても「出来ないことを手伝ってくれればいい」と言い、手術後だろうが退院前だろうが
「自分のことは自分でやる」というのを徹底していた。

看護学生がからんでいたこともあり、ちょっとだけ仲良くなったのだが、退院後に私と看護学生さんを焼き肉に招待して下さった。
冒頭に書いた“とても芯の強い人だ”と分かったのは、実はその時だったのだ。
入院中は“ナースと患者”とか“学生と受け持ち患者”という立場で応対するが、退院したら自然と1人対1人になれたのだ。
本来は立場がどうであれ、そうしなければならないのだけど、人生経験が未熟な為にその時の私にも現在の私にも到底不可能なことだ。

私自身、左膝に関することで数回の入院・手術を体験せざるを得なくなった時に初めて
「あの時ケイコさんは(病気の種類や重症度に関係なく)こういう事を言いたかったのではないか」と分かった。
逆の言い方をすれば入院するまで気付かなかったのだ。
“ナースのおばちゃん的患者生活〜平成11年・転倒編〜”の中にも所々に書いているが、

自分の意志とは無関係に、
自分の目の前に次々と出てくる現実を、
好む好まないは別として、
全てを直視する、そして受け入れることから始まる…。


何も病気と闘う時だけでなく、日常の様々な出来事においても言えることなのではないかと思うようになった。
ケイコさんの“あの言葉の凄み”を今になって噛みしめている私がいる。

ここから先の部分は2002年元旦に追記したものである。

今日はとても嬉しいことがあったので早速文章化してみた。
2002年になって初めての電話が鳴った。午後1時を少し過ぎた時間だった。
うちはナンバーディスプレイにしてある為、自分が電話に出る前に相手の電話番号が分かるようになっているのだが、
知らない番号だったので最初は出なかった。用事があってかけてきたのなら留守電になっているのだし、
メッセージは入れるだろうという予測の元にそうしてある。
しかし、今回は何もメッセージがなかったのでいつもなら放置しておくのだけど、今日に限ってこちらからかけ直してみたのだ。
相手はケイコさんだった。

いや〜、お久しぶりです・・・という感じだった。
毎年、年賀状は出していたのだが声を聞くのは本当に久し振りのことだった。胃癌の手術を受けてからちょうど8年になる
と言っていた。私の勤務していた病棟に入院していた当初は確か中学生だったという男の子が既に社会人になったとのこと。
いつも気にしてくれて有り難いと言ってもらったが、ここ数年間は年賀状の上では私の方が気にされているような状態なので、
お互いの近況報告も兼ねて色々と話をした。
ケイコさんが私の勤務していた外科病棟で胃癌の手術を受けたのは、平成6年1月17日のことだったらしい。
うーん、そんなに時間が経ってしまったのかという感じだった。電話の向こうのケイコさんはとても元気そうな声をしていて、
私だけでなく手術当時に受け持っていた学生さんのこともしっかりと記憶しているようで
「あなたと〇〇さん(学生さん)に助けて頂いた」という言葉を下さった。
なんともお恥ずかしい限りなのだが、その次がケイコさんのケイコさんたるゆえんだと感じざるを得なかった。
前述の言葉に続けてサラッと、本当にサラッと会話の流れの中で「せっかく助けてもらったから、
今度は人のために生きることにしたの。それでおじいちゃん(たぶんご主人のお父様)の介護をしているのよ」
と言っていた。
穏やかだが、どこかにこの人の強さを感じさせる一言だった。そして後で思い出すと涙が出てきそうになるような言葉だった。
それほど凄みと強さを感じるということは、ケイコさんの内面から出てくるものだろうし、本で勉強してそうなったというものではないと思う。

ケイコさんは今年(2002年・平成14年)で〇〇才になるという。
胃の手術は☆☆才の時に受けたので、ちょうど今の私と大して変わりない年代になる。もちろん私の方がずっと年下であることに
変わりはないのだが、ケイコさんと話をしていると『時間の経過は全てのことを受け止めてくれる』ような感覚になっていた。
本当に不思議な人だ。
お互いの近況報告をしている最中、私の方が一気にまくし立てる場面があったにも関わらずケイコさんは黙って話を聞いてくれた。
私が「以前、ケイコさんが言っていたように、患者としてBEDに寝ていると相手が誰でも“この人は本当に自分の方を向いて
話をしているかどうかが分かる”というのが自分の患者体験を通して実感出来た」と言ったら、あなたも歳をとったのね・・・と笑っていた。
そして「色々なドクターやナースがいて腹が立つこともあったし、看護婦の視点で注意や指摘もしてきたけど、
私を傷つけていることに気付いてない人も多かった。後で考え直してみると自分も気付かないうちに患者さんを傷つけていたかも
しれないと思った」と言った時も同じようなことを言っていた。
また昨年9/15に42才で亡くなった元同僚の訃報から始まる「訃報ラッシュ」とも言える3ヶ月間は本当に(精神的に)きつかった・・・と
言った時も、良くある台詞(亡くなった人の分まで)は決して口にせず黙って話を聞いてくれたようだ。
42才の元同僚でもかなりのダメージだったのだが、その後はどんどん若くなり「32才・心筋梗塞」「28才・くも膜下出血」
というようなものだった。皆、元看護婦である。ケイコさんは「私の時も◇▽才で胃癌は早いと思った」とか
「若さと体力は過信するべきでない」とも言っていた。ごもっとも、おっしゃる通りであると思う。

最終的には「このまま干されたままで終わるのは悔しいので、第1線とは言わないので第2線か3線の後ろくらいに
復帰はしたいと思っている」と言った私に次のような言葉を頂いた。

『干されてるのでなく、今まで(意識しているかどうかは別として)他人様の為に働いてきたのだから休む時期なんだと思う。
今さら焦っても仕方がないと思ってると思うけど、いつも頑張ってきた人だし、安らげる時間を持っても良いと思う』

ケイコさんから電話をもらったというだけでなく、本来は人に提供しなければならない元気をも頂いて嬉しかった。
とりあえず元気が出たというか、嬉しくて気分が良かったので電話を切る寸前に「いやー、うれしー!これで初夢宝くじはいただき!」
という気になったし、ケイコさんも「喜んでもらえて嬉しいわ」と言っていたので、善は急げとばかりに早速初夢宝くじを買いに行った。
スポーツプラザが元旦から時間短縮で営業しているというのを知っていたので、電話を切ってから直ぐに「宝くじ購入→水中ウオーキング」
という順序で出かけた。
そんなに上手くいくはずがないだろ・・・というのは分かっていても、とても気分が良かったのでつい出かけてしまったのだ。

おっと・・・。肝心なことを書くのを忘れるところだった。
手術から丸8年が経過し、9年目に突入するケイコさんの病状は「今の所、再発も転移もなく日常生活は普通に出来ている。
丸山ワクチンを使っているので月1回の通院は続けている」とのことだった。
あー、良かった!

(2002年元旦の追記分はここまで)


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SINGLE-MOTHERになった人との出会い

平成10年10月22日、自宅から近いという理由でこの病院の整形外科を初めて受診した時は、
それまで半年間の経過が余りにも悪くて悲惨だったし、ノートパソコンも持っていなかったので入院中に日記風の経過概要を書く余裕は
ハッキリ言ってなかった。従って、当時やりとりしていたメールを元に、リアルすぎる記憶を確認するという事になる。
この時の病名は“左化膿性膝関節炎”で平成10年10月22日〜同年11月26日まで入院しており、
左膝の第1回目の手術が平成10年11月11日に行われた。術式は滑膜(かつまく)切除術という、一般の人には聞き慣れないものだ。

しかし、ここでは悲惨な経過を書くという“お涙頂戴的な感覚”は毛頭ないので、別の驚くべき事実を書いてみようと思う。
私もまだまだ人生経験が足りないなぁ〜、と自覚出来たのはしばらく経ってからのことだった。
この時は緊急に準じた入院だった為、整形外科病棟でなく産婦人科病棟内の1室に入る事になった。
6人部屋だったが、内科、眼科、外科、整形外科…と1つの病室で混合病棟が出来るという雑居部屋に近い病室だった。
同じ病棟内で2回ほど病室の変更があったが、どこも似たような感じの部屋だと記憶している。

そんなある日、私の隣にお腹が大きいお姉さんが入院してきた。
お腹が大きいとは腹水等の病気でなく妊婦だったのだが、お姉さんは“妊娠中毒症”だと言っていた。
安静目的だったらしく、ただ横になっているという時、色々と話をしていると不倫相手の子供を産むことにした
水商売の人らしいという事が分かった。お姉さんはもちろん独身だ。
相手に妻子があり年収2400万円はあるという中年医師とのことで、ここまではよくある話なので
別に珍しくも何ともないし、誰も驚かないだろう。(お姉さんは給料明細を見たと言っていた)
中年オヤジが飲み屋のネーチャンに熱を上げる…という典型的なパターンだったのだ。
私が驚いたのは、相手の中年医師という人物が以前に勤務していた病院の形成外科部長だったということだ! 
不倫の片方を知っているというのは時々あるが、両方ともというのは滅多にないと思ったからだ。しかも偶然に。
その形成外科部長は、私達看護婦だけでなく患者さんからの信頼度も高く、手術の腕も良いのかそのドクターが執刀した患者さんの傷は
とても綺麗になってくるし、性格的にも温厚を全面にアピールしているような人だった。外見的には。

翌年に年賀状が来た時、写真を見て女の子だと分かった。
この子があのドクターが2号さんに産ませた子か、などと勝手に思ったりしたものだ。
これは少し後になって分かった事なのだが、いくら不倫でも相手がドクターだと分かると収入の関係で
入所出来ないという“乳児院”に赤ちゃんを預けて働いていると、本人が言うのだ。。
乳児院は税金で運営されているのだけど…。働くのが馬鹿らしくなってくるというものである。
2歳までという年齢制限があるらしいのだが、不倫相手のドクターを主治医に見立て睡眠導入剤を処方してもらい
「不眠症のため精神不安定で自宅での育児は困難」という診断書を書かせたかどうか知らないが、
2歳の誕生日までは乳児院に預けておくそうだ。書類さえ揃っていればこんなものなのかと思うと、役所もいい加減なんだなあ。
乳児院を出た後は「仕方がないので実家に帰る」と本人が言っていたが・・・。
世間の裏側ではこんな事も起こっているのだと改めて思った一件だ。

余談になるが“正規の手段で処方された”睡眠導入剤がどこに流れていたのか知る由もない。

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受け持ちナースのこと PART1
彼女に初めてお目にかかったのは、左膝に関する2回目の入院となった平成11年6月のことだった。仮にK山ナースとしよう。
上司の指示で仕方なく(?)私の受け持ちナースになったらしく「〇〇さん(私のこと)、受け持ちになりましたのでよろしく
お願いします」と言い、病室の私の所にやって来た。当時のK山ナースはまだあどけなさが残っており、
どこから見ても新人という感じの初々しさがあったのだ。それもそのはず、彼女は平成11年看護婦国家試験に合格してからまだ日が浅く
3ヶ月しか経っていない“正真正銘の新人さん”だったのである。平成11年の入院は4日目に『左前十字靱帯再建術』を受けたので、
手術前の関わりというのはこの時のことしか記憶にないというのが正直な所だ。

当時(平成11年)の私は自分の疾患に関する可能な限りの勉強をしてから入院した為、手術そのものに対する不安はなく、
その後の尿閉という合併症のことだけが唯一心配の種となっていた。
しかし、手術後の日数が経過するにつれ、細かい部分に関して知らないことが出てきたので「これは彼女では到底無理だろう」と
いうこと以外は、極力“卒後1年目の受け持ちナース”を通じて聞くようにしたし、他の何事も彼女を通すようにした。
私自身は複数のナースに同じ事を何回も言わなくて済むし、もう1つのメリットとして・・・。
そうすることによって彼女の中で「私の受け持ち患者」という意識が出てくるようにという狙いがあったのだ。
その後、数回の入退院を繰り返すたびに「あのやり方は成功だった」と感じている。
それは、病棟のシステム上、毎回同じナースが受け持つことになっているというのを知ってからは尚更そう感じていた。
同じ事を何回も言うのはごめんだ!

1年目の彼女は私から見ると「動作はSLOW」「頼んだことは忘れる」そして「何事もあやふや」という3点セットだった。
しかし、患者の私に見せる一種の頼りなさとは裏腹に、あるナースの言葉を借りると「いくら患者でも業界の大先輩だからね。
必死だよ」とのことだった。私の看護計画を遅くまで残って書いていたり、あるいは治療方針について担当医に聞いていたり
してたよ・・・と、先輩ナースから聞かされた時は「ほほぉ〜」と思ったりしたものだ。
又、私の病室担当でなくても、日勤に出てきた時は必ず顔を見せに来るという小技も収得したらしいというのを聞いたことがある。
なかなか、やるじゃんか。
3ヶ月という長期に渡る入院生活を終えて退院したのは、平成11年9月15日だった。

3回目の入院(ナースのおばちゃん的患者生活・平成12年・抜釘編)は、それからちょうど1年後の
平成12年9月11日〜10月9日だったのだが、しばらくぶりにお目にかかったK山ナースは時の経過と共に“今風の若いお姉さん”に
変貌をとげている最中なのかと感じた。彼女の頭(要するに髪の毛)はインスタントラーメンのようだった。そして足の爪かな。
これはもう“お約束”という感じだし、患者には全く影響がないので「別に」という感じであった。

それより“卒後2年目になっても私の担当になってしまった、とても不運なナース”はやらかしてくれたのだ。
今となっては笑い話にすぎないが、本人の強い希望(?)により改めてこの件を書いて皆さんにご紹介することにした。
本編(患者生活・平成12年抜釘編)にはわざわざ気をきかせて(?)これを書いていないのに・・・である。
本当に良いのか!?K山ナースよ!
でも、まあ本人が良いというのだから、こちらはネタを提供してもらった以上書かなければ。

抜釘+瘢痕形成の手術当日の経過は本編を参考にして頂きたいと思うのだが、彼女のその日(平成12年9月14日)の
勤務は準夜だった。私が、自身3回目の手術を終えて病室に戻ったのが確か夕方5時頃だったと記憶している。
それから数時間経ったと思われる22時前後のことだった。元々、気管支喘息という持病がある私の喉元が
ヒューヒューするという自覚があった。ナースコールを押して上肺野(肺の上半分)の呼吸音を聴診器で聴いてもらい、
自覚症状だけでなく本当に音がしていることをK山ナースの耳で確認してもらった。
特に呼吸困難というのはなかったのだが、一端ナースステーションに戻り、数分後にやってきた彼女は
“ネブライザー”という機械を持参していた。
これは一般の人に分かりやすく書くとすれば『呼吸を楽にするには細かい気管支を広げる(拡張する)必要があり、
その気管支拡張剤(液体)を霧状に噴霧して吸入する機械』とでもなるのだろうか・・・?

吸入というからには、口にくわえて霧を吸い込まなくてはならないのだが、彼女は何を急いだのか慌てたのか、
口にくわえる部品(マウスピースという)を取り付けないで持ってきたのだ!!
大して緊急事態でなく時間に余裕はあったのに・・・。
機械の電源を入れて口に持っていこうとしたら「あら?あらら?」という感じなのだ。2人で笑ってしまった!
消灯後だった為、私が「ここ(マウスピース)ないよ」と小声で教えるまで気付かなかった彼女も相当なもんだと、
その時初めて思ったけどね。
恥ずかしかったのか「プッ」と吹き出した後、マウスピースを取りにいって戻ってきた時は笑いをこらえているのが
アリアリと分かったので余計におかしかったなぁ〜!このマウスピース事件は後々まで記憶に残る珍事件となったのだ。
ちょっと“お笑い”って感じだった。


この時点では誰も、そして何より私自身が再入院するなんて思ってなかったので、職場復帰に向けての
やる気・意欲ともに満々で10/9に退院したのだ。
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受け持ちナースのこと PART2
ところが退院後13日目に私の左膝がボコボコに腫れてきたので、10/23に一旦整形外科部長さんの外来を受診しておき、
10/24からUターン入院することになったのだ。ああ、何ということだろうか!・・・と嘆いても仕方がないので、
とりあえずこの痛みを何とかしてもらわなくてはならない。当時の担当医であったY澤医師は「抜釘の時、多少なりとも抵抗力が弱って
いる所に関節鏡をやったのが原因でしょう」とのコメントを発表した。

整形外科病棟の2人部屋が空いているというので車椅子に乗せられて病室に上がった。今回の受け持ちナースも前回までと同様
K山ナースだという。内心「ラッキー」と思いつつも、とりあえずその場の痛みを何とかして貰いたかった。
この時の入院が“ナースのおばちゃん的患者生活〜平成12年・予定外の感染編〜”という事になるのだが、
12/10までお世話になることになっちまったのだ!K山ナースにしてみたら“予定外の受け持ち患者”とでも言うのだろうか・・・。

平成11年この病棟での最初の入院時から一貫して“何事もK山ナースを通してやるようにし、彼女の中に自分の受け持ち患者という
意識を植え付けること”にして正解だったと思っている。何か調べ物を依頼する時や、Drに治療方針等の説明を求める時、
そしてそれに対する答えを伝える時、あるいはそこに至るプロセスでの話し合い・・・、どれをとっても必ず彼女の時間がある時に
私の病室にきてもらい、私自身がそう考える根拠や思い等を包み隠さず話をしてきた。
また彼女も嫌な顔1つせず、私の長〜い話に付き合ってくれたことには感謝しなければならないと思っている。

“予定外の感染編”から一時的に改善して退院したのは12/10なのだが、この日は日曜日でK山ナースが勤務に出てくると言うのを
あらかじめ本人から聞いて知っていた。そして退院の少し前に買って手元にあった“井上陽水・奥田民夫”の「ありがとう」というシングルCDを
退院時に手渡すという計画的犯行(?)を実行することにしたのだ。
これには私の方の作戦があって「先輩がいる前で賛辞の一言と共に渡せば私が退院した後で必ず誉められるだろう。
誉められて嫌な気分になる人間はいないだろうから、彼女が一瞬でも気持ちよく働ける為の手伝いが出来ればそれでヨシ」という考えのもとに
退院寸前にナースステーションに行き、他の先輩2人が戻ってくるのを待って「去年(平成11年)のACLの時も、この前(平成12年9から
10月にかけて)の抜釘の時も、そして今回も・・・。私、あなたのお陰で足が治ったと思っているから」という言葉と共に先程のCDを手渡したのだ。
タイトルを良く読むように・・・という一言とともにナースステーションを後にした私は、5分後には既に帰宅していた。

のちに整形外科病棟の婦長氏に「付き合い長いもんね」と言われて2人して苦笑してしまったのだけど、
私はこの時点でお互いが扱い方を覚えてきたのかもしれないと感じていた。私もK山ナースもこの時は2/13に入院する羽目になるとは
思ってなかったので、喜び勇んで退院したのだけど2ヶ月後には再び入院し3/9に4回目の手術を受けることになったのだ。
そして新たな発見があるのだが、この2/13から4/22の入院で確認したことがあるので読者の皆さんにご紹介しておこう。
2年前、すなわち彼女の卒後1年目の時は「動作はSLOW」「頼んだことは忘れる」「何事もあやふや」という3点セットだったのだが、
2年目の後半(もうすぐ3年目になる寸前)になる時期になって、頼んだこと(彼女からすると頼まれたこと)を忘れなくなったのだ。
これはある意味進歩かもしれない。こんな事は普通だと思うのだが、こんな事でも誉められるというのは医療界自体が変なのかもしれない
と感じざるを得なかった。しかし、とにかく頼んだことを忘れなくなっただけでも進歩だと彼女に告げたら「それって誉められてるんですかね」と
苦笑いしていた。表情はまんざらでもなさそうだったのにね。やはり、たまには誉めないと今頃の若者もやる気をなくする、ってなもんよ。

毎回、この病院の整形外科病棟に入院する度にK山ナースが受け持ちになったのだが・・・。
彼女も平成13年4月以降は「卒後3年目」となっていた。後輩が出来て少し張り切っているようにも見えたのだが、
そのへんはどうなのだろう?たぶん、そんな余裕はないと思うのだが。
5/24に6回目の入院をすることになった時も漏れなく彼女が受け持ちになったのだが、この時は入院3日目の5/26に
大変な事件があったので、前年からの積み重ねと病院自体が移転を控えており縮小・閉鎖傾向にあることも考慮し、
何より平成12年秋以降病状が改善してないという現実を見逃す訳にはいかなかった。
K山ナースにも「ほぼ同じ年代と思われる毒舌ナース」にも、一言も相談しないで転院する事を決めてしまったのだ。
今までお世話になったことに対して「後ろ足で泥をかけるような失礼なこと」をしてしまったことになるのだが、
自分の身体を優先した結果そういう結論に達したのだ。

このK山ナースと毒舌ナースだけは、私のことを他のナース達と違って受けとめてくれているように感じていたし、
何回か入退院を繰り返しているうちに、私が疾患に取り組む姿勢とか、社会復帰に向けた意欲とか、あるいは戦う姿勢とかを
理解してくれているのではないか・・・と感じているし、それを口に出しても言っていた。
たぶん表と裏を使い分けるほどのものは持ち合わせていないと思うので、そのまま受け取っても良いと思っている。
従って、退院直後の6/11(月)に紹介状を手にした時点でこの受け持ちナースにだけは、噂でなく私自身から転院のことを
伝えなくてはならない・・・と感じていた。今回の治療方針に関する資料や何かを色々と揃えてくれたし、
マイナス・イメージにとられがちな私の所によく顔を出してくれた。勤務先に提出する診断書を頼む時、嘘をついているような錯覚があり、
実は自分の中で決めているのに報告出来ないもどかしさというものがあった。だけど、そのような感情面とは別に自分の身体のこと
(改善してないという現実)を優先した結果そのようになった・・・という事である。
実際に転院出来ることになった時、方法は何でも必ず伝えなくてはならないと思った。こういうのを「心苦しい」というのだと感じていた。


そして、6/11に紹介状をGETした時点で誰よりも早くK山ナースにメールを出した。
とても失礼なことをしてしまった私に出来るのはここまでである。事情はメールで説明したので後は理解を求める・・・というか、
分かって頂くしかないという感じである。こうしている間にも病状が変化するかもしれないのだ。
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ケンスケさんという人
ケンスケさんは40代前半だった。
黒ブチのメガネををかけ、細身だがしっかりした印象を受けた。これは最後まで変わることがなかった。
ケンスケさんは外科、泌尿器科等で数回に渡って入退院を繰り返したのだけど、
初回の入院は私がアナムネ(病歴などの聴取)を取ったという記憶がハッキリしている。
病名は“骨盤内巨大腫瘍”という、わけの分からないものだったが「要するに悪性のもので相当大きなOPになる」という事を了承して
入院してきたと本人が言っていた。

一般的に男性は痛みに弱く、耐えきれなくなって周りの看護婦や家族に当たりちらす・・・という事が多々あるし、
また医師から説明されるというだけで動揺を隠せないという人を何人も見てきた。こういう時は女性の方が底力があるものだと
妙に感心することがよくあった。しかし、ケンスケさんはそうした一般的な概念と全く違っていた。
独身だったということも影響しているのか、自分のことは自分で決めるというスタンスを亡くなる寸前までkeepしていた。
(ご両親は健在だったが入院生活で見ている限りではマザコンというそぶりは見られなかったと複数ナースの証言あり)

ケンスケさんのOPはかなり大掛かりなものになった。
私が当時勤務していたのは外科病棟だったのだが、泌尿器科のOPも行っていた。一般の人に分かりやすく書くと・・・。
 1,外科→腫瘍も含めた膀胱、直腸、前立腺等骨盤腔内にある全ての臓器摘出と人工肛門増設。
 2,泌尿器科→尿管(腎臓から膀胱まで尿を輸送する管)を腹壁(お腹の表面の皮膚)から出し、
   そこに管を留置して尿を体外に誘導するOP。
という2つの種類となる。

もちろん、1度には行わず2回に分けて施行されたのだが、ケンスケさんは一切動じた様子を見せず淡々としているように見えた。
何事に対しても現実を認めようとする姿勢がかいま見えており、このページに記載しているケイコさんと同じく、
それが私達看護婦の勉強になり心を打ったことは言うまでもない。

ケンスケさんの闘病生活を「入院」という形でその一部を見せて頂いた中でこんな事があった。
当時、4年毎に行われるサッカーのワールドカップが開催されていた。日本国内での試合ではなかったので現地との時差が生じ、
放送されている日本は夜中・・・という具合だ。病棟内に談話室兼食堂のような場所があり、テレビも設置されていた。
夜中に眠れず、点滴台と共に病院内をゆっくりと散歩してきたケンスケさんは談話室でタバコに火をつけ、
テレビのスイッチを入れた(もちろん、イヤホン使用)。元々サッカーが好きだったということもあり、見入っていたようだ。
しかし、その時の私は白衣を着ており自らの職責を全うしようとしていたのか「時間も時間だしお部屋に戻りましょう」と促したのだ。
ケンスケさんは黒ブチのメガネの奥にある小さい目をカッと開き、小声だがしっかりとした口調で
「次のワールドカップの時は生きてるかどうか分からないんだから(テレビを)見させてくれ」と言った。
私は黙ってその場を立ち去るしかなかった。

また、こんな事もあった。
正月勤務をこなしていたある朝、ケンスケさんがナーススーテションに現れ、当日勤務していた看護婦全員に
「お年始替わりに」と言って、日本将棋連盟という所からもらったという扇子を下さったのだ。
(私達看護婦は誰1人としてケンスケさんと特別な関係にあったのでない・・・という事をお互いの名誉の為に一応記しておく)。

もちろん、その扇子は今でも大切にとってある。
時には車のダッシュボードに置いていたり、カバンの中に入っていたりしたのだが、左膝を負傷してからは
度重なる入院生活の時、必ず持参するようにしている。既に扇子としての役目は終えているのに、である。
理由は不明だがなぜか“底力”とか“強さ”を与えてくれそうな感じがするのだ。
当時のスタッフとは今でも交流があるが、この扇子を持っている人は皆私と同じことを言っている。

ケンスケさんが亡くなった時、私も含めた数名のスタッフは勤務交代で院内の各病棟にいた。
私は整形外科病棟だったのだけど、亡くなった事は外科のスタッフから聞いていた。
それから数日後、背中の丸い小柄なお母様が“元外科病棟の看護婦”がいる各病棟を回っていると言い、
私の所にも「お世話になりました」と挨拶に来てくれたことは、今でもこの灰色の脳細胞に深く刻まれている。

そしてケンスケさんから手渡しで頂いたこの扇子は、
どんなにボロボロになってもお金では決して買えない大切な宝物として存在し続けるであろう。
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腹痛の人

私の記憶が正しければ、あれは確か平成8年か9年頃のことだったと思う。とある病院で夜勤をしていた時のこと・・・。
腹痛を訴えている中年男性が運ばれてきた。来院時には顔面蒼白で脂汗をかいているという状況だった。
当直医の診察、採血、レントゲン等を行った結果、胆石症の発作ではないかということが判明し、とりあえずの除痛処置として
500mlの点滴に鎮痛剤を混入して様子を見るということになった。
この人は元々胆石症での通院歴があり、過去に1〜2回夜中に胆石発作で同様の処置を施行していたこともあって、
当直医の話では「診断は比較的容易だった」とのことだった。

急患は次から次へと来るので、その“腹痛の中年男性”は処置室という場所へ移動して点滴を行うことになった。
とはいえ、点滴に混入した鎮痛剤はかなり強めのものだったし、症状も強かったので途中でちょくちょく様子を見に行っていた。
腹痛が軽減しているかどうか、そして鎮痛剤の副作用がでていないかどうか・・・という点について観察するためだった。
点滴は500mlなので最低でも3.4時間はかかるので、その間に何とか腹痛の方は治まってきたようだが、
発熱してきたようで点滴が終了する頃には38.0℃代の後半になっていた。当直医に報告したら、そのまま入院ということになった。
もちろん本人も了承した。細かい事務手続きはともかくとして、とりあえず車椅子で病室に案内してから通常の夜間業務に戻っていた。
あとは病室担当のナースの仕事だろうから、簡単な引き継ぎ(業界用語では“申し送り”という)をしておけば済むことである。

翌朝、夜勤を終えて帰宅する前に何となく気になったので病室(個室)に寄ってみた。
病室には奥様がきており丁寧にお礼を言われた。また患者さんにもお礼を言われた・・・。
と、ここまでは良くある話である。私が内心「ラッキー」と思ったのは次の瞬間だった。
夜中に来院した際に持っていたカバンの中から何やらチケット風のものを取りだし、私に手渡してくれたのだ。
当時Jリーグというのが新たに結成されたとかで、サッカーの人気が異常なフィーバーぶりだったのだが、
なんとサッカーのチケットだった。聞けば「何とか指定席」とかでチーム関係者しか入手出来ないと言っていた。
サッカーは興味の対象外だったが、予想外に有り難がられたということもありその場で断るには場違いという雰囲気があったので
「あとで婦長に言って返してもらおう」と思いつつ、その場ではとりあえず受け取って「お大事に」という言葉と共に病室を後にした。

何日か後になって聞いたのだが、婦長がチケットを返しに言ったにも関わらず返しきれずに戻ってきたと言い、
そのチケットは私の物となった。
・・・が、私はサッカーなど知らないので、当時の同僚に「彼氏と行きな」と言って、惜しげもなくプレゼントしたのだ。
ここでもまた「こんな良い席、なんで手に入ったんですか?」と聞かれてまたしても有り難がられたのだ。
私にしてみれば頭の上に“?マーク”が幾つも点滅していた位に無頓着だった。
ところが後で伝え聞いたのは、なんと! 例の腹痛の中年おじさんは“サッカーチームを持っている某自動車会社系列の
エライ人”だったらしく、彼がとても具合の悪いときにたまたま夜勤をしていた私にとても感謝していたという事だった。
うーん、長いことやっているとこんな事もあるんだな、という感じの出来事だった。

尚、この人はこの夜の胆石発作で観念したのか、症状が落ち着いてから手術を受けて無事に退院
されたという話も後々耳に入ってきた。

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