■■ 福島正則はクシママサノリ!? ■■
--- 正則と北条綱成との接点とは ---
私は残念ながら拝見したことがないが、菊泉院の什物である画像(享保2年に赤林信龍が奉納した一軸)にはおおよそ次のようなことが書かれているらしい。
【正則が市松と申した12歳のときに、ことあって大工を討ち取り、そのまま赤林掃部の屋敷に逃げ込んだ。殺された大工の仲間はもちろん、近在の百姓たちもこれを追って来て掃部の屋敷の門前まで押し詰めてきた。掃部はこれをなだめて追い返した後、正則をひそかに逃がして駿河国の今川家来福島伊豆守を頼らせた。】
『美和町史』によると、この文書は正則の死後100年に書かれたものであるから信憑性が高く、正則が福島姓を称することになった事情が知れるとある。(死後100年は信憑性が高いのか疑問だが)
今川家臣の福島家というと、武田ファン、北条ファンの方には、おっ、と思われるかもしれない。通説による福島上総守正成といえば、武田信玄が生まれた年に今川軍大将として大軍を率いて甲斐国に攻め込み、信玄の父信虎と戦って討死をした人物といわれている。また正成の子綱成は父の戦死を聞くと小田原に走り、北条氏綱より娘を与えられて養子となり、地黄八幡の旗で有名となる北条綱成その人のことであるからである。
さて、正則が市松と呼ばれていた頃に薫陶を与え、福島姓を授けたといわれる福島伊豆守なる人物とはいかなる人物なのであろうか。小和田哲男氏の『今川氏重臣福島氏の研究』(今川氏家臣団の研究 清文堂 所収)を読んで、その名を探してみたが残念ながら見つけることはできなかった。
その時にふと気がついたことがある。福島正成の系統の福島家はみな代々、左衛門太夫を名乗っているのである。確かに正則も左衛門太夫を名乗っているので同じ福島左衛門太夫ではあるが、まさかその偶然のつながりだけで根拠としてはあたらないであろう。
【今川氏重臣 福島氏系図】
基宗――――――基仲――――――基成――――――親成――
蔵人福島左近将監 福島五郎 福島六郎 福島左衛門大夫
―繁成――――――基正――――――正成――――――綱成
福島九郎左衛門大夫 善九郎左衛門大夫 福島上総介兵庫頭 北条左京大夫氏綱養子
北条左衛門大夫
今川家臣の福島氏は九島とも書かれるそうで、「フクシマ」とは読まず「クシマ」と読まれる。この所伝によれば福島正則はクシママサノリなのであろうか。
【追記】
早瀬晴夫氏の「織豊興亡史 三英傑家系譜考」を読む。
福島正則の系図がいくつか載せられており、そのなかで駿河福島氏とつながる系図を発見した。幕末に編纂された「系図纂要」が出典だそうである。地黄八幡綱成の父正成は政成と記され幼名は市松であったとされる。政成の弟に正則の実父とされる星野成政があり、さらにその下の弟に甲陽軍艦の信玄初陣章で有名な平賀源心がいる。(源心については筋がそれるのであえて触れない)
【福島氏系図(深栖氏系図)】
成則(市松) ___政成(上総介)__政武__正光(市兵衛)===正則
|
|___星野成政(政武女との間に実子正則)_______↑
|
|___平賀源心
北条綱成は政成(正成)の子であるので、この系図によれば正則と従兄弟、また一方では正光の養子となっているので甥の子ということにもなる。
早瀬晴夫氏は正則の父が星野成政で母が福島政武の女、養父が正光では世代に無理があり、なによりも福島家が豊臣秀吉と系譜上の接点がなくなることに疑問としているがまさにその通りだと思う。
特に参考としたもの
■美和町史 人物一
■「今川氏重臣福島氏の研究(今川家臣団の研究 所収)」 小和田哲男
■「織豊興亡史 三英傑家系譜考」 早瀬晴夫
など
トップに戻る