第59回  お尻のくぼみはなんのため?

数日前に友人からお茶会のお誘いを受けた。
断りきれずに「出かけるのは億劫」と言いつつ、久しぶりに電車に乗ったが、
究極の出不精が久しぶりに電車に乗ると、その功罪もあるようだ。

慣れていない電車の切符の券売機の前で、早くもオロオロ。
以前は、切符を買った際に金額の表示が出ている画面だったが、
見たこともない画面が出ていた。
きっと故障しているのだと思い困惑していると、
背後に人が並んだ気配がしたのでとりあえず隣のパネルへ移動・・・
そちらのパネルも金額表示画面ではなかった。

また人がやってきたので、一旦その場を離れて思案していると、
やって来た人は迷わずにパネルの横のボタンを押した。
すると、以前使ったことのある懐かしい金額表示の画面が現れた。

なぁーんだ、ボタンで操作するのね。

恥ずかしながら、これがアナログ生活を送っている、
出不精人間の生活感覚なのです。

しかし、世の中はうまく出来ている。
そういう人間は、久しぶりに見る世間が素晴らしく新鮮に見えるから、
特別な刺激を他に求めなくても、電車に乗るだけでその欲求は満たされる。

たとえば、おそらく誰もが「馬の念仏」で聞き流している
電車のアナウンスの内容を逐一聞き取っている。
それらが滑稽で、いかにも阿保らしいから腹を立てる。

さて、ここで読売の読者投書欄の投書の内容をご紹介したい。
タイトルは「弱者に席を譲ることは当たり前のこと」

投書の主は、3歳の男の子の母親32歳。
彼女は毎日2歳の子供を連れて電車を利用する。
その路線は成田から都内へ向かう外国人の、
スーツケースを持った乗客がたくさんいる。
混雑した車内で日本語がわからない外国人から声をかけられ、
小さな息子が席を譲られる機会が多いというもの。

その3歳の息子は、日本語が分かる人には丁重に断っているという。
母親が「立っているのが大変な人に席を譲るのよ」と教えるだけでなく、
「自分が小さい子供だからと席を譲られるのは当たり前と思ったらいけない」と、
日ごろ言い聞かせているからである。

エライ!

3歳児は優先席を必要とする人に席を譲るようにとの車内アナウンスを聞くと、
母親に問うという。

「どうして優先席があるの? 
 立っているのが大変な人に席を譲ることは当たり前なのに」

坊や、その通りなんだよね。

以前のコラムでJRの過剰な車内放送に対し、
「モラルをインスタントに植えつけようとしても土台無理な話。
 幼児期からきちんと教育すれば優先席も放送もまったく必要のないもの。
 他の国でこのような放送を流しているのを聞いた覚えがない」の主旨で書いたが、
この時点で3歳児の疑問とわたしの考えの根底はまったく同じと言える。

わたしの物の考えは3歳児程度なのか?
いや、その言い方は3歳児に対して大変失礼に当たる。

3歳児でも疑問に思い理解できることが、
今の日本の大人は理解できていないと考えるのが正当だと思っている。
それゆえに、世にも恥ずかしい内容の車内放送についても
当たり前と捉えているせいか、多くの乗客は関心を示さない。

これらに関心を示さないということは、
他の同様なさまざまな世相の疑問に対しても無関心であるに相違ないから、
それが恐ろしい。

日本には世界でも稀なほどおかしな現象が多くあるのに、
これらが一向に是正されない背景には、
3歳児よりも劣る大人の感覚に起因しているのではないのでしょうか。

地下鉄はもっとひどかった。

「なるべく多くの人が掛けられるように、席を詰めておかけください」

その席の体裁は、ひとり分のお尻が納まるように
丸いくぼみが付けられていた。
よほど図々しい人物でも、それを越境して座ることはしないでしょう。
なぜならそれをすると自分のお尻が痛いから。
図々しい人物に限って、自分の痛みには敏感なものである。
もちろんくぼみがなければ痛くないから、
図々しい本領を発揮して二人分の席を占有する。

それを防ぐためにくぼみをつけたのよね? 
その上でさらに放送する必要があるの?

馬鹿馬鹿しくて話にならないけれど、話にしてしまった。
それくらい日本の世の中はおかしなことが溢れているというのに、
それをおかしいと思わない人のなんと多いことでしょう。


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