第196回　知的好奇心と、ビールのタダ飲み 「ねぇ、ビール工場見学に行ってみない？」 「ビール工場かぁ・・・」 「ずっと行ってみたいと思っていたの、面白そうじゃない？」 「ビール工場かぁ・・・」 「ビール工場よ！」 「ビール工場ねぇ・・・」 「いやだぁ、出来立てのビールが、タダでたらふく飲めるのを知らないの？」 「なにっ！」 ビール好きの夫の目の色が、とたんにメラメラと燃えた。 工場見学には試飲や試食があると噂に聞いていた。 しかし「たらふく飲める」を確認したわけではないから保障はできないけれど、 夫をおびき出すための、わたしの大いなる脚色であります。 そして、夫とわたしは肩を並べて歩いた。 ビール工場までは歩いて1時間ばかりかかる。 好奇心を全開にして、 キョロキョロしながら歩くのが大好きなわたしには願ってもない道中でも、 車好きで歩くのを極端に嫌う夫は、見える距離でも車を使う横着者。 その人が1時間近くを歩くと言ったから、ひっくり返りそうになった。 うっそぉー！　どうして？　なぜ？・・・言い知れぬ不安が募ってきた。 「歩いた方がビールがうまく飲めるぞぉ。腹いっぱい飲んでやる！」 やっぱり！ 長年連れ添った人の顔を、マジマジと見てしまい、 そんな理由でもなければ・・・と安心した。 道中は散々だった。 家を出てまだそれほど歩かないうちから、まだかを連発し夫は悲鳴をあげた。 それをなだめ、褒め、あやし、ようやくビール工場の門にたどり着いた。 工場の門を入るときから、すでにわたしの好奇心はフル稼働状態。 建物のホールに制服の受付嬢がふたりいた。 ホールのシンプルなデザインは清潔でなかなか心地良い。 見学の参加者らしい人たちが、すでに受付の前にたむろしていた。 20代らしい男女のカップル、3人組の中年女性、4人のご老人グループ、 30代らしいひとりの男性、夫婦らしい中年カップル、そして我れら夫婦連れ。 中学生らしい、制服を着た男女6人のヤンググループ。 その団体さま御一行が、美しく清楚な案内嬢に導かれて、いざ工場内見学へ。 最初に小さな会場でビールの出来るまでの映画を観る。 それが終わるといよいよ工場ツアー開始。 数万坪の敷地に、以前は1000人以上いた従業員が、 機械化により現在は300人足らずとか。 そのせいか、ツアー終了時まで従業員らしき人の姿を見かけなかった。 ツアーが佳境に入るころには、参加者の間に奇妙な連帯感が生まれ 案内嬢の説明の合間には、冗談を言い合い、笑い合い、 見知らぬ同士がまるで同じ団体であるかのような錯覚に陥った。 「キミたち、中学生？」 「ハイ、そうです」 「オイ、中学生がなんでビール工場に見学に来るんだ？」 「学校の授業で発表するんです」 「そうか、そうか、うんと勉強していけよ」 案内嬢の説明がないときは、 ご老人グループがなにやら冗談めいた説明をして笑いが絶えないが、 工場の生産ラインは機械だけが働いていて無人のような印象。 ツアーの最後は木造の高い天井の広いレストランでオタノシミの試飲会。 コーナーに設けたカウンターで、出来たてのビールを注いだグラスを受け取り、 好きなテーブルを選んで勝手に座る。 テーブルの上には、なんとオツマミまで用意されている。 グイッと一気にいきたいところでも、モチロンそうはさせてくれない。 まずビールの注ぎ方の講釈からはじまり、けっこう待たされるから、 夫はお預けを食ったポチみたいで、可哀想になった。 「さ、どうぞお飲みになってください。 　申し訳ありませんがおひとりさま3杯までとさせていただきます」 そのときの、夫の顔と言ったら！ 「この前は、オレ４杯飲んじゃったけど、今日は３杯でいいや」 ご老人組はそう言って笑い合っていたから、どうやら常連さまのようです。 「中学生のボクちゃんたちは可哀相ね、おビール飲めないもの」 「あっちでジュースを飲んでいるぞ」 「そう言えばジュースも作っているわね、この会社」 「さっきからすごい勢いで頻繁にお代わりしている、ジュースが目的じゃあないのか」 夫は自分と他人の目的を一緒にしているらしい。 出来立てのビールはさすがにまろやかでおいしい。 「3杯だけなんて、せっかく張り切って来たのに残念ね」 2杯目のグラスに手をつけている夫を慰めると、夫は言った。 「そうでもないさ、なんだかもう腹が一杯になってきた」 いつもと様子が違って殊勝なのは、たくさん歩きすぎたせい？ 夫には続きがあった。 「あの女の人なんかすごいや、もう３杯目だぜ。やっぱりビールが目的なんだ」 夫は最後まで、他の参加者も全員が自分と同じ目的でやってきたと 疑がっていたようだ。 そこにはいつもと同じ夫がいたので、大いに安心した。 みなさまもたまにはこのようなオタノシミはいかがでしょう。 次はお土産付きのお菓子工場見学に行こう！ （これが辛口コラムかよ、なんてチャチを入れないでね。 　怒ってばかりいると寿命が縮まるそうですから、たまにはのんびり・・・） HOME 　TOP 　NEXT