津山市東部の歴史概要

このページは、津山東部地域の大まかな歴史の流れをご案内します。


0.津山市東部(高野)の地形

 高野は、津山市東部に位置し、広い平野部と丘と川からなっています。
 平野部には加茂川と古川、そして蟹子川が流れ、北には、美作の丘のある丘陵部、そして、
西には山西からしづな山につながる丘があります。
 加茂川が上流から土砂を運び堆積させ、大水により平らで肥沃な土地を作りました。
 丘陵部には古くから人が暮らしていた痕跡がみられます。古墳時代には、平野部に降りてき
ようですが、いずれにしても津山市東部は、古くから開けていた土地でした。

1.太古

 1500万円前の津山盆地一帯は、浅い海でした。このことは、二宮の吉井川の川底でヒゲク
ジラの化石が発見されたことと、田邑でパレオパラドキシア(カバのような動物)の化石が発見
されたことからでも明らかです。このあたりの海のことを津山海と呼んでいます。
 このころの津山海やそのまわりの陸地には、哺乳類や他の生物たちが住み、今の熱帯地方
のように一年中暖かく、海岸にはマングローブなどが生えていたそうです。
 津山盆地は化石の宝庫で、東部地域でも、多数の化石が発見されています。

2.旧石器時代

 今から、約3万年前、私たちの祖先は、狩や漁をしたり、植物の実や根を採って生活してまし
た。
 その時代を旧石器時代といいます。その頃の人たちが暮らしていた跡が遺跡として各地に残
っていますが、東部地域では、河辺天神原遺跡、押入西遺跡があります。

3.縄文時代

 今から1万年くらい前の時代は縄文時代と呼ばれています。この時代の遺跡や生活の跡も
たくさん見つかっており、瓜生原から西吉田にかけての丘や草加部あたりに人が住んでいまし
た。
  大田のグリーンヒルズ津山では、最も古い縄文時代早期の竪穴式住居が発掘されました。

4.弥生時代

 1〜3世紀は、弥生時代と呼ばれ、あちこちの小高い丘に住居や墓地がたくさん作られてい
ます。
  有名なところでは、沼の住居跡はご存知のところですが、これは、約2000年前のもので、丘
の上に住居や倉庫が復元されています。
  さて、東部地域では、天神原(河辺)、押入西から弥生住居跡が発見されています。
  また、人が死ぬと木の棺にいれて、村から少し離れたところに墓を作る風習も始まり、三ヶ池
遺跡(近長)では、弥生時代の墓が発掘されています。

5.古墳時代

 3世紀の後半から4世紀ごろ、土地の支配者は、富と力を蓄えて、前方後円墳と呼ばれる巨
大な墓を作りました。日上の天王山や高野山西の正仙塚古墳などにみられます。二宮には、
美和山古墳群があり今は史跡公園として、整備されています。
  5世紀の終わりから6世紀にかけては、日上の畝山には直径10mくらいの円墳が作られて
います。他にも、国分寺の長畝山、川崎の六口塚など各地で作られました。また、横穴式の石
室が古墳に取り入れられ、福井の火の釜古墳に見られます。
 5世紀ごろになると、朝鮮半島からたくさんの人が日本に渡ってきました。同時にこれらの
人々は、農具、土器、武具、土木工事の技術、養蚕や織物の仕方、漢字など進んだ技術や文
化を日本に伝えました。田を耕す鍬や鋤により、水田も広がりました。綾部という地名がありま
すが、これは、当時、織物を織った人々と関係のある地名として残ったと言われています。
 また、鉄を作り始めたのもこの頃です。綾部の緑山遺跡からは、製鉄炉跡と製鉄炉に使う炭
を作った炭焼窯跡が見つかっています。

6.奈良時代

 645年、大化の改新により、朝廷は、全国を国、郡、里にわけて、政治をしました。奈良時代
の始まりです。
 713年、備前の国のうち北部の6郡を分け、美作の国が作られました。美作の国は、英多
(田)、勝田、苫田、久米、真嶋(ましま)、大庭(おおば)の6郡がありました。美作の政治の中
心となる国府は、総社に置かれました。
 このころの土地は、条里制という土地の制度で区分され、今でも、その跡が、山北や上河
原、高野、押入に見られ、特に高野小学校の南あたりでは、顕著に見られます。
 741年、聖武天皇は、全国に国分寺、国分尼寺を建てるように命じました。美作の国分寺
は、河辺小学校の西側の今の国分寺の寺のあたりに建てられました。発掘調査によって、20
0m四方もある広い敷地にめぐらせた長い塀や、大きな金堂や講堂、高い塔の跡などが見つ
かりました。国分尼寺は、国分寺の西500mほど離れた所に建てられました。美作の国分寺
は、その後の源平合戦のころ、火災に遭い焼失したそうです。

7.平安時代

 794年、都が京都に遷されました。貴族中心の平安時代です。中央の有力な貴族や神社や
寺の私有地(荘園)が増えました。貴族は、広い荘園からの収入で栄えましたが、その一方
で、地方の政治は乱れ、力の強い者の勝手なふるまいや盗賊たちに対応するため、豪族たち
は武装し、武士団を作っていきました。
 10世紀にになると、地方の豪族たちは、自分の土地を中央の貴族や社寺に差出し、荘園の
管理者になる者も出てきました。
 津山市東部の荘園は、皇室の高倉荘、北野天満宮の長岡荘があります。八出の天神様は、
長岡荘ができたとき、北野天満宮の神様を祭ったものと言われています。
 また、神社もこの時代に作られてきて、一宮の中山神社、二宮の高野神社、そして総社宮が
国内の三大神社と言われ、人々の信仰を集めました。

8.鎌倉時代

 11世紀、武士の平氏が力をつけ、朝廷の重要な位を占め、勢いをふるいました。その後、こ
の平氏を倒し、武士による政治を始めたのが、源頼朝です。彼は、鎌倉に幕府を開き、御家
人の中から有力な武士を守護として国ごとに置きました。また、荘園には地頭を置きました。
 美作地方では、守護所が院庄の作楽神社あたりに置かれ、高野には中島隆家という武士団
がありました。
 この時代の平氏と源氏の戦いは、全国を巻き込み、不安な世に疲れた人々は、救いを仏像
に求め、民衆のためのわかりやすい仏教が次々に生まれました。美作からは法然上人が出
て、浄土宗をひらきました。
 道も整備され、京の都から播磨、美作を通って、山陰の伯耆、出雲へ通じる主要な道(後の
出雲街道に近いもの)が、今の国道179号線に沿って、津山市内に入り、国分寺の近くを通
り、兼田から川崎を抜け、丹後山の北をまわり、十六夜山(津山高校の中庭にある)のある椿
高下から小田中を通って院庄の守護所へ続いていました。
 
9.南北朝・室町時代

 鎌倉幕府が衰えを見せると、後醍醐天皇は、幕府を滅ぼそうと計画しますが、失敗し捕らえ
られました。そして、隠岐に流されたのです。そのとき、天皇の一行は、ほぼ今の出雲街道沿
いに美作を通過しました。杉坂峠から美作の地に入り、院庄館に宿泊しました。その時、備前
の武士、児島高徳は、天皇を励ますため、院庄館の桜の木に「天莫空勾践 時非無茫蠡」(天
空践を空しゅうする莫れ、時に茫蠡無きにしも非ず)という詩を書きました。この話は、太平記
に記されている有名な話で、明治に新劇を始めた川上音二郎らによって、これが芝居として演
じられ、評判となり、院庄と高徳の名前は全国に知られるようになりました。
 このころの武士は、国人とも呼ばれ、領地を持ち、村に住んでいました。身分がなくとも、開
発や生産により、多くの土地を手に入れ、名主となったり、武士になる者もいました。当時は、
実力があり機会に恵まれると出世できる世の中でした。河面の清瀧寺には、当時、村に住ん
でいた有力な武士が奉納したといわれる石塔があります。
 また、生産が高まり、人々の生活が豊かになってくると、商人の活動も盛んになり、社寺の門
前や街道筋に市場ができるようになりました。押入の「二日市」、日上の「三日市」の地名は、
中世の定期市の名残と言われています。

10.戦国時代
 1467年の応仁の乱からの100年あまりが世に言う戦国時代です。日本全国が戦乱の世と
なったのです。
 美作地方も例に漏れず、はじめのころは、播磨を本拠地とする守護大名の赤松氏と山陰地
方に勢力を持っていた守護大名の山名氏の間で、美作の地を巡って何度も戦がありました。
その後、赤松氏の有力武将だった浦上氏、その浦上氏を倒した宇喜多氏、更に山陰の尼子
氏、安芸の毛利氏などにより、美作地方の争奪戦が繰り広げられました。
 美作地方での主な戦は、1579年の毛利方の神楽尾城と宇喜多方の荒神山城の戦い、同
年の医王山城の戦いです。
 医王山城の戦いでは、吉井川沿いに宇喜多勢が攻め上ってきて、林野の三星城が落とさ
れ、更に医王山城まで攻め上ってきたのです。しかし、医王山城は1年以上も持ちこたえ、宇
喜多の大軍は引き上げたのです。
 津山市東部にあった山城は、先の医王山城のほかに、黒女城、台山城、別所城、鉢伏城、
高野城、新宮城、瓜生原城、塔尾城、横手城などがあります。
 その中で、高野城について、ひとつエピソードがあります。高野村の国人は、牧佐介といい、
宇喜多についていました。宇喜多氏と結んだ豊臣秀吉が牧佐介に与えた書付が残っていま
す。
 「高野村では、軍勢による乱暴、放火、田畑の作物を刈り取ることは堅く禁止する。また、村
人に対して税などを勝手にかけてはならない。」という内容です。
 これにより、戦いになると兵士たちは相手の山城や付近の家を焼き払ったり、作物を盗った
りしていたことがわかります。

11.江戸時代

 1600年、関ヶ原の戦いで、東軍の徳川家康が勝利を納めました。美作を支配していた備前
の宇喜多氏は、西軍に属していたため、秀家が八丈島に流され、宇喜多氏は滅亡しました。
美作地方は、信濃川中島の海津城主だった森忠政が18万6500石を与えられ、領主として
入国しました。それまで、戦乱に明け暮れ、まわりの大名に支配されてきた美作は、ようやく一
国一領主による支配となったのです。
 忠政は、当初、院庄の館跡に入りましたが、刃傷沙汰があり、縁起が悪いとのことで、水陸
の交通の要地でもあった戸川の鶴山(つるやま)を選んで城を築き、そのまわりに城下町をつ
くりました。
 「津山」は、この「鶴山」を改めた地名です。こうして、津山の町が生まれました。
 忠政は、織田信長に仕えた森蘭丸の弟で、信濃川中島の城主から1603年、美作の領主と
なりました。森氏は検地のやり直しや新田開発、大川と呼ばれた現在の吉井川の流れを変え
るなどの他、出雲街道も城下を通るようにしました。また、衆楽園も1657年に作りました。更
に各地にため池もつくりました。宝蓮寺池(高野)、浅鳥池(高倉)、大沢池(田邑)などがそうで
す。
 津山城は13年の年月をかけて作られ、五層の天守閣がそびえ、堀に囲まれた堂々とした城
でした。別名、鶴山城とも呼ばれていました。
 森氏は更に水田を増やすため、平地に住む住民を台地に移し、その家の跡を水田にしまし
た。これを「山あがり」といいます。一方村、野介代村、河辺村と次々に山あがりをさせました
が、中でも河辺村の移転は大規模なものでした。
 高瀬舟の活躍も有名です。高瀬舟は底が浅くて平らで、あまり深くない川を行き来するのに
適していました。吉井川や加茂川は、荷物や人を運ぶ大動脈でした。瀬戸内の海産物や醤
油、みかんなども吉井川をさかのぼり、津山に運ばれました。川みなとには、石灯篭の常夜燈
が設けられ、今も、楢の石灯篭が高瀬舟の船着場として当時の面影を残しています。
 森氏は四代続きましたが、長成の病死により、跡継ぎがなかったため、おとりつぶしになり、
替わって松平氏が新しい領主としてやって来ました。
 松平氏の槍印「剣大」は、津山市の市章として使われています。松平氏は明治まで九代、17
4年間続きました。
 松平氏が入国した1698年の秋、津山領で庄屋や農民たちが団結し、年貢を減らして欲しい
と百姓一揆を起こしました。これが、元禄一揆あるいは高倉騒動と呼ばれているものです。高
倉の大庄屋堀内三郎右衛門は、「百姓たちに年貢減免の嘆願書を提出させて欲しい」と藩の
役人に話をし、役人は、「願いのとおり、年貢を幕府並みにする」と回答しましたが、その後約
束を破り、一揆の先頭に立っていた、三郎右衛門ら指導者8人を兼田河原で処刑しました。こ
の犠牲者の墓のある萬福寺(高野)や高倉には、三郎右衛門をたたえる碑が建てられていま
す。また、高野本郷村の庄屋作衛門の碑は永安寺(高野)にあります。
 話は変わりますが、田熊から和算の大家で算仙と呼ばれた中村周介と嘉芽市が出ていま
す。周介と嘉芽市は、津山藩からの依頼で堀坂の加茂川から水を引く用水のトンネルの測量
設計をしました。このトンネルは今も使われています。
 江戸時代の民衆の娯楽として、農村歌舞伎があります。
 田熊にある八幡神社の歌舞伎舞台は、明治はじめの改築ですが、中央の回り舞台は、大き
な滑車を24個も使って回転するように工夫されています。
 また、民衆は、寺社参りを口実として、旅に出ていました。中でも、金毘羅参りが盛んでした。
高野山西には、金毘羅様が祭られています。兼田橋の西側にある道しるべには、「播州姫路2
1里 信州善光寺155里」と書かれています。
 津山は洋学が盛んなところでした。津山からは優れた洋学者が出ています。宇田川玄随は、
1792年、津山で初めての人体解剖を行っています。また、箕作阮甫は、西新町で生まれ、わ
が国最初の医学雑誌を発行しました。西新町にその旧宅が残っています。

12.明治時代・大正時代

 1868年、江戸幕府が倒れ明治新政府となりました。1871年、廃藩置県が行われ、津山藩
は津山県となり、その後北条県となりました。そして、1874年、政府の命令により津山のシン
ボル、津山城が取り壊されました。堀も士族へ農地として払い下げられ、埋立てられました。
 学校教育も始まりました。数年間で、32校の小学校が設立されました。現在も、高野、成名
などは当時と同じ校名で残っています。高野地方で最初に作られた小学校は1872年に作ら
れた、山崎小学(高野山西)で、高野小学校ができたのはその2年後の1874年でした。
 1895年には、津山中学校(現在の津山高校)が開校し、1903年には津山女学校が開校し
ました。
 日清、日露戦争を経て、大正時代に移ります。
 1918年、米の異常な値上がりにより、全国で米騒動が起き、津山東部でも高野、林田で起
こっています。

 津山は、1889年、津山町と津山東町に分かれますが、1900年、両町が合併して津山町に
なります。その後、昭和に入り、1929年、津山市が成立しました。このときには、まだ、津山
東部地域は津山市には入っておらず、津山市と合併するのは、第二次世界大戦後の1954
年(一部55年)になってからです。


参考文献:わたしたちの津山の歴史
     郷土 津山
     出雲街道旅日記
     むかし高野


  

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