明日香村 石舞台
ま蘇我そがよ  蘇我の子らは  馬ならば  日向ひむかの駒こま  太刀たちならば

くれのま刀さひ  うべしかも  蘇我の子らを 大君の 使つかはすらしき

                           推古すいこ天皇 日本書紀.103

我が蘇我よ、蘇我一族の君は、馬ならば、日向の若駒.太刀ならば、唐士もろこし

渡りの鋭利な剣つるぎ そこで大君が蘇我の者どもを、側近くお使いになるというのも

もっともと言うほかはないだろうなあ.


推古天皇20年春正月7日、天皇は宮廷の役人たちを集めて酒宴を催したときの歌

                       帝塚山短期大学名誉教授猪股静弥 著「万葉風土記」より

592年12月、推古女帝は明日香の豊浦宮に即位し、翌年の4月、聖徳太子を摂政

に立て、天皇と摂政と大臣おおおみ蘇我馬子というトリオ政治を開始しました.ここに

およそ1世紀あまりつづく明日香古京の時代がはじまります.推古朝の治世は36年

におよび、その間、仏教文化を受け入れ、憲法17条を公布し、中国には遣隋使を

派遣するなど、古代国家の体制の基礎を確立しました.しかし、推古朝を文学の面

からみこると、人々が自己の喜怒哀楽を叙情詩として自由に表現できる時代では

なかったようです.7世紀前半までの歌と言えば、歌が集団共有の歌謡で、長老を

中心とした農村や宮中などで、祈りをこめ、踊りながらうたわれたものが主流でした

「日本書紀」をひもといてみると、推古天皇と大臣おおおみの馬子、それに聖徳太子

の詠んだ長歌が登場します.ここに掲げた歌は推古天皇が馬子に呼びかけ挨拶の

歌で、女帝が蘇我氏を賛美して政治上の安定を願う心のくみとれる長歌です.

石舞台は、重さ数十トンの巨石を組み合わせた横穴式古墳で、蘇我馬子の墓といわ

れています.思えば、石舞台では、今に残る推古朝の一大記念碑ですが、この巨石

を運び、墓を構築したのは、自分の苦痛を叫ぶこともできず、うたいあげる術も知ら

ない民たちであったのです.江戸時代のことでしょうか.この古墳の巨石を舞台にして

月夜には狐や狸が踊るといううわさがたち、いつしか村人たちは巨石群を石舞台と

呼び、それが古墳の名前になったのです.

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巻1‐5