明日香村 土手カボチャ

瓜食(うりは)めば 子ども思うほゆ 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ 何処(いずく)より

来りしものを 眼交(まかなひ)に もとな懸(かかり)て 安眠(やすい)し 寝(な)さぬ

瓜を食べると子どものことが思われる。栗を食べるとまして偲ばれてならない。一体

子どもはどこから来たものであろうか。目の先にちらついて、安眠させない。

山上憶良は天平時代、老や、貧困、家族愛など人生の哀歓を歌い続けた歌人です。その

題材のユニークさはひときは目を見はります。憶良を歌人として大成させたのは、晩年に

過ごした九州での体験と言われています。憶良は67歳の頃、筑前の太宰府に赴任しま

す。1300年前の太宰府は、中国や朝鮮半島の外交の場としての玄関で活気あふれて

いました。憶良は筑前の国で様々な民衆の生活を目にします。

そこで生まれたのが一連の長歌です。

彼は世の中を歌う社会派歌人で生、老、病、死(せいろうびょうし)生きる苦しみ、年をとる

苦しみ、病気する苦しみ、死ぬ苦しみを歌います。このような歌は万葉歌人では彼一人歌

っているのです。それまでの他の歌人の歌うところの自分の恋愛や、自然の美しい風景

を歌ったのは1首もありません。あらゆる意味で他の万葉歌人とは違った作風を持ってい

ます。それはどうしてこの様な特異な歌人として、登場して来たのでしょうか。憶良は百済

(韓国)からの渡来人ではと想像します。660年に生まれて663年。この年白村江(はくそ

んこう
)の戦いで百済の國は全て滅亡しこれを応援していたのが日本でしたから、百済よ

り主要な人々が皆な日本にやった来ました憶良も多分お父さんの憶仁(お医者さん)と一

緒に日本にやって来ました。数えで4才でそれが憶良ではなかったか。渡来人つまり韓国

という異文化が特異な歌を作らせたではと思います


もう何十年前になりますか韓国の地を訪れたのは。その時、韓国語で小生の住んでいる

奈良(ナラ)がハングル語では国家の意味である事を知り、その後、幾度か韓国の山深い

古刹を尋ね歩き、昔、都のあった扶余の山寺を訪れた折りに、その寺の若い修行僧から

飛鳥はどういう意味かと尋ねられて返答に苦慮した思いがあります。修行僧の説は白村

江の戦いで滅びた百済の主要な人々は倭國、大和に心して宿れる所を求めて大挙渡

来した。安宿(アンシュク)と言い、それが訛ってアスカになったのだとの説で、ナラが国家

との連動で、そう言う解釈も成り立つのか否か、未だに解りません。

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